ブックコレクション

墨東公安委員会の
「今週の一冊」
〜雑破業からマルクスまで〜

第1回〜第13回(1クール目)


#今週の唯物論

 最後に、大工業の諸領域における非常に高度な生産力は、―これには実際、他のすべての生産部面における労働力の搾取の内包的および外延的増大が伴っているのだが、―労働者階級のますます大きな部分を不生産的に使用することを、かくして殊に昔の家内奴隷を下男・下女・召使などのような『僕婢階級』の名称のもとでますます大量的に再生産することを、得させる。

カール・マルクス(長谷部文雄訳)『資本論』河出書房

 誰でも知ってるけど読んだことはない本の代表例という点で、『失われた時を求めて』と並ぶ超大作・・・というのはちょっと誇張ですが、とにかく、マルクスなのです。メイドさんの最盛期に繁栄した思想です。引用したのは、古本屋で全四巻箱入りかなり美品(買った人は多分読まなかったんだろうなあ)が二千円で叩き売られていたので、思わず衝動買いしてしまった河出書房版です。今多分一番普通に売ってるであろう岩波版ではありません。で、もちろん筆者も読んではおりません(笑)。引用部は、機械の導入によって資本家は労働者をより少なく雇用しながら利潤を増やすことが出来、そのため労働者は旧来の職場を追われて違う方面へ、例えば家事労働へ移行せざるを得なくなるという文脈です。
 それはともかく、マルクス経済学のそもそもの立場では、上の引用のように、家事労働は「生産」ではないと捉えているのだそうです。「生産」とは価値を生み出すということで、価値というのは市場で金銭と交換可能なことだそうです。従って、主婦の労働には賃金が支払われないから家事は価値を生まないとか、いやそうじゃないとか、そういう論争があったのでした。
 ある立場に拠れば、主婦の労働が生産しているのは、現在労働力として市場に供給され得る「夫」と、将来供給されるであろう「子ども」なのだといいます。これを時代をずらして僕婢階級、つまりメイドさんに当てはめれば、メイドさんの労働が旦那様を生産していることになります。つまりメイドさんあっての旦那様であって、逆じゃないのです。本当かいな。
 拾い読みしてると、この本は「!」マークとかが結構多く、マルクスの先行研究への批判(そもそも「資本論」は「経済学批判」なのですが)はそれだけアツいので、もしかしたらそういうところが多くの人の心を引きつけたのかもしれません。

(連載第13回)


#今週の歴史学

 進歩の仮説は論破されてしまいました。西洋の没落というのは、もう引用句が要らないくらいファミリアな言葉になりました。けれども、大騒ぎは別として、本当は何が起ったのでしょうか。(中略)彼 (注:A・J・P・テイラー)が述べているところによりますと、文明の没落に関するすべての議論は、「昔の大学教授は女中を使い慣れていたのに、今では自分で食後の洗いものをしている、ということを意味するに過ぎない。」もちろん、かつて女中であった人たちの眼から見れば、大学教授が洗いものをするのも進歩のシンボルかも知れません。

E・H・カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書

 歴史を学ぶ際の古典とされている書です。今から四十年ほど前に書かれた本ですが、今日なおその内容は歴史を学ぶ者にとって必読といってよい内容であります。さて、引用は第5章「進歩としての歴史」からですが、19世紀の西洋文明が「人類は良い方向へ向かって進歩しており、その過程を描くのが歴史学である」という信仰に基づいていたのに対し、両大戦を経て文明の進歩を単純に信じることが出来なくなった以後の、そしてその戦争の結果、西欧の圧倒的な勢力が低下してしまったことを踏まえての一節です。考えてみれば、メイドさんという職業が興隆し衰退する過程は、世界における西欧文明の(特に英国の)占める勢力の大きさと、どこか一致しているような気がします。両大戦後の世界を見れば、アメリカ文明は電化機械化されてメイドさんの必要が低下してますし、ソ連は・・・レーニンは「共産主義とはソビエト権力プラス全国の電化」とかいってたんで、まあ多分メイドさんは不用になるのでしょう。そこらへんの追及は来週を待て。

(連載第12回)


#今週の死刑執行

 63 4月10日、ゼーバルト・カイザー、ニュルンベルク市民で縁飾り職人。彼は妻がありながら、女中で世過ぎをしている十四歳ほどの少女を犯した。ニュルンベルク市にて打ち首の刑に処した。
 (中略)

 127 5月5日、シェーデルの娘クニグンダ、シュナーベルワイト出身。百姓家の女中であったが、主人の七十歳になる百姓との間に、ヒュールで子を産んだ。彼女は産み落とすやいなや、赤児の首をしめ厩舎に埋めて隠した。嬰児殺しの廉で、彼女をベッツェンシュタインにて打ち首の刑に処した。頭は獄門台に打ちつけた。60年以上かの地で処刑された者は一人もいない。

フランツ・シュミット(藤代幸一訳)『ある首斬り役人の日記』白水社

 17世紀頃のドイツはニュルンベルク市の、死刑執行役人の日記の邦訳版です。この当時、に限らずとも、大体犯罪者で捕まって処刑されるのは男の方が多いと相場が決まっていますが、女性で死刑に処せられる場合、もっとも多いのは嬰児殺しでした。望まぬ妊娠で出来てしまった子を・・・というパターンですが、その望まぬ妊娠の原因の代表例が、ここに挙げたような『ご主人様に手をつけられた女中』でありました。それにしてもこの百姓、七十にもなってようやるな。そして強姦して死刑になった男もおるわけですが、この日記を読むと、強姦が鞭打ちなど死刑より軽い刑に処せられた事例もあるようです。日記には記載されなかった、様々な状況があったのでしょう。簡潔な記録の行間から、近世ヨーロッパの世界を垣間見ることが出来る貴重な記録であります。そして、女中さんたちの立場の危うさをも。

(連載第11回)


#今週の社会史(連載10回記念&新年あけましておめでとう2倍サービス特別編)

 ビートン夫人にとって、早起きは使用人はもちろん、女あるじの場合にも美徳とされていたが、その「早さ」の持つ意味は両者のあいだで違っていた。
 自分なりにゆとりを大事にする女中は、寝間で身繕いをするのにおれ相応の時間をかけたのち、夏は六時、冬は六時半または七時までに必ず仕事についているはずである。これより早くては、冬には炭や蝋燭の無用の浪費を招くことになる。
 こう見ると心配なのは、無用の出費であって、哀れな女中たちの無用な努力の浪費ではないのである。

モリー・ハリスン(小林祐子訳)『台所の文化史』法政大学出版局

 筆者の大学で近現代を教えておられる先生は、技術史が専門なのですが、「台所の歴史」なるゼミを以前開いていました。なんで台所かといいますと、「家庭でもっとも技術集約的な場所は台所である。従って台所を見れば家庭にどのような技術が浸透しているかが分かる」という訳なのです。その台所の歴史を、古代から現代まで、英米の例を中心に述べたのが本書です。当然、台所の労働の中核を担う(担っていた)メイドさんの記述も多く、その歴史的変遷を辿ることができます。引用部は19世紀の章からですが、ことのついでに本書からもう一つ、16世紀の章から引用してみましょう。
 召使は遺言状に遺産分与者としてしばしばその名前を書き留められている。(中略)遺産は金銭ではなくて品物で贈られることが多かった。1521年、イーリー町のロバート・フレヴィルなる者は「予の召使ジェーン・コリンに1クォーターの大麦、同じくジェーン・バーカーに3クォーターの大麦、羊4頭、ならびに敷布1組」を遺している。二番目のジェーンが主人に一体どんな特別サービスをしたのか勘繰りたくなる!

 次に示すトーマス・チャーチャードの詩には女中の愛らしい姿が描かれている。

 娘はこの家の寵児となって、
 かわいい鼠のごとくとびまわる。
 そしてもの言うたびごとに、
 こ腰をかがめて愛らしく会釈する。
 椅子の下余す所なく掃き清め、
 クッションのほこりも振り払う。
 イグサや藁や小枝、
 散らかれば、すぐに片づけ、
 日々の家事、手際よくさばく。
 この娘、奥方の華と呼ばれる。
 「メイドさんロックンロール」より上品で宜しいかと思われます(笑)。
 なお、イグサは畳表ではなく(当たり前だ)蝋燭の芯などに使われていたそうです。

(連載第10回)


#今週の華族問題

 丁度その時こつこつと戸を叩いて、秀麿の返事をするのを待つて、雪が這入つてきた。小さい顔に、くりくりした、漆のように黒い目を光らして、小さくて鋭く高い鼻が少し仰向いてゐるのが、ひどく可哀らしい。(中略)雪を見た秀麿の顔は晴やかになった。エロチツクの方面の生活のまるで瞑つてゐる秀麿が、平和ではあつても陰氣なこの家で、心から爽快を覺えるのは、この小さい小間使を見る時ばかりだと云つても好い位である。
 「綾小路さんが入らつしやいました」と、雪は籠の中の小鳥が人を見るやうに、くりくりした目の瞳を秀麿の顔に向けて云つた。雪は若檀那に物を言ふ機会が生ずる度に、胸の中で凱歌の聲が起る程、無意味に、何の欲望もなく、秀麿を崇拝してゐるのである。

森鴎外『かのやうに』(鴎外全集)岩波書店

 森林太郎というのはなかなか偉そうな人です。作品中にも「啓蒙主義的な高飛車な態度」をしばしば伺うことが出来る、と評されています。俺様は一般大衆とは違う高尚な人物だぞと。だからといって十六七の舞姫に孕ませて、それ放置して日本に帰って来ていいってもんじゃないでしょう。おまけに日本まで追っかけられるし。船客名簿を調べた人によると、事実ではエリスじゃなくて「エリーゼ」だそうです。
 それはともかく、『かのやうに』ですが、これは大逆事件の翌年書かれた作品で、無政府主義のような新たな思想の流入に旧来の支配階級は如何に対応すべきかという時代の許、山県有朋の要請もあって書かれた作品だそうです。内容はといえば、ドイツに留学して近代合理主義を学んだ五条家(子爵)の若様秀麿が、帰国して日本の伝統思想を体現する父と微妙な思想的対立関係になり、「父と妥協して遣る望はあるまいかね」と友人(これも外遊した華族)に相談して「駄目、駄目」と言われるところで終わります。そういう思想的作品なのですが、そこで分からんのが上記引用部に出てくる、小間使いの雪ちゃんの役割です。さらに『かのやうに』は続編もあって雪ちゃんも再登場します。こだわりのあるキャラクターのようです。
 この作品では、秀麿と父と母と友人がいれば、思想的な問題を描くのに充分なように思えます。では若檀那を崇拝している雪ちゃんは何を、あるいはどういう階級を象徴しているのでしょうか。これは来年の研究課題に回しますが、もしかしたら鴎外は「小柄で目のくりくりした小間使い萌え」ではないかという疑惑が。いや、『鶏』という短編にも「くりくりした目」の下女が出て来て、彼女だけが他の使用人と違って、檀那様である軍医(≒鴎外)の物をくすねないんですね。うーん、怪しい。

(連載第9回)


#今週の農村問題

 “めろ”というものはどげなものか知っておじゃいもすか。“めろ”とは人間の牛馬のようなもの。都会の商店や、普通の勤人の台所で働く女中なんぞというそんなあまい響きをもつ職業とはおよそケタちがいの“作女”でございもすと。
(注:“めろ”は原文では“”ではなく傍点が附されている)

宮本常一・山本周五郎他監修『日本残酷物語5 近代の暗黒』平凡社ライブラリー

 言葉の感じで分かるかもしれませんが、これは鹿児島県の話。鹿児島県は紡績女工の「一大供給地」といわれていたそうですが、それもこれも土地が貧しいからでした。苛酷な労働環境と一般に言われる紡績女工すらも、故郷の貧しい農村に比べれば、彼女達にとってましな環境だったのです。ついでに鹿児島県は女中さんの供給源でもあったみたいですが、都会の家庭で女中さんに就職できたというのは、実はかなり幸運な部類だったのかもしれません。“めろ”というのは農家で働く女性の奉公人のことですが、その労働の厳しさ、待遇の低さは紡績女工をも凌ぐものであったと、この本の中では述べられています。この『日本残酷物語』は1959〜61に出版され、現在平凡社ライブラリに収められており、記述には古さを感じざるをえませんが、読むものを引きつける力は失われていないと思います。

(連載第8回)


#今週の大砲王

 窓は一晩中開け放たれていた。誰もが自分の居場所―つまり、寝室の毛布の下―から離れないようにするためである。廊下をうろつくことを許された唯一の人間は、彼の妻だった。彼女は一つのベッドにはかならずひとりの人間しかいないことを確認しておきたかったのである。ある観察者によると、「彼女が好んで自分に課した任務のひとつは、夜、召使の寝室の近くにしのんでいることであった。二つの棟に長く小部屋がつづいており、それは性別で分けられていて、ひとつの鉄の渡り廊下でつながれているだけだった。両方の棟を結ぶ廊下で給仕か女中の姿を見かけると、彼女は見つけた者を即座に、その場で解雇した」

ウィリアム・マンチェスター(鈴木主税訳)『クルップの歴史』フジ出版社

 フジ出版社は現存しません。その歴史(特に戦史)を中心とした垂涎もののラインナップも過去帳入りとなりましたが、最近学研と中央公論新社が壮絶な版権争奪合戦を繰り広げた挙げ句、大体折半して両者で再版することになったようです。その今は亡きフジ出版社の出した、上下巻合わせ千ページを越える大著、ドイツの軍事産業を支えたクルップ社について、その一族の人間模様を軸に描いた書です。
 このクルップ一族とは非常にエキセントリックな人々だったようで、上の引用の彼女とは両大戦期を生きたベルタ・クルップ(1886〜1957)のことですが、事実上の創業者たるアルフレート・クルップもまたたいへんに奇矯なところがありました。
 女中が黒いストッキングをはいているのを見つけると―工場の煤煙が丘の上までただよってきたので、そうするのが賢明だったことは明らかである―アルフレートは彼女らをきびしく叱責した。彼が若いときには、家事手伝人は白いストッキングをはく習慣であり、ここでもそれを守らなければならないというわけだった。
 というわけで実に詳細に渡る浩瀚な書ですが、おそらく中公も学研も再版はしないでしょう。ミリオタが読んで面白い本かはちょっと微妙だからです。しかし、やおい趣味な方には推薦しておきます。本書第9章「第二帝国のオスカー・ワイルド」は、アルフレートの息子フリッツが美少年買いに狂ったあげく発覚して自殺する話を軸に、当時のドイツ第二帝国で如何にホモが流行ったかにページ数を費やしており、この章だけ図書館で探して読むと面白いでしょう(笑)

(連載第7回)


#今週の東西比較

 どうもれっきとした貴婦人なんぞよりも、小間使いとか爪磨きの娘のほうが日本人の好みにはあうらしい。だから(欧州への)留学生が往々にして恋などすると、こちらは学士さまでむこうは小間使いなもので首尾よく結婚するが、その小鹿のようだった彼女が日本に連れかえったころから見る見る太りだすのは見るも恐ろしいくらいである。彼女はついに部屋一杯にふくれあがり、狭い部屋住みの身であれば、旦那は常にセミのごとく柱にしがみついていなければならない。

北杜夫『どくとるマンボウ航海記』新潮文庫

 大変有名な旅行記です。書かれたのはずいぶん昔のことで、描かれた国々の様子も相当に変わってしまったのですが(だいたいシンガポールが独立前の時代)、しかし面白さは全く変わらないのです(と思います)。この引用部のように、笑ってしまう表現と鋭い観察とが見事に融合しています。個人的には、続編では『昆虫記』も好きな作品です。引用部はイタリアでのこと、サンドイッチを食べているとき、店に入ってきた女性が「実に可憐で、かつジェロニモ大聖堂にあったマリア像のごとく端麗」だったので、店の人にあとで彼女のことを聞いたら近所の床屋に勤めているとの由、そこで抱いた感想なのですが、北杜夫氏は小間使いより爪磨きのほうが好きなのかもしれません。いや、『怪盗ジバコ』に爪磨きの女性が出てきたから、というだけの根拠ですが。

(連載第6回)


#今週の独裁者

「彼が女性に求めるものは」とスターリンの娘はこう書いている、「非常に原始的でした。晩年の18年間、家政婦として彼の世話をしていたヴァレチカがスターリンの理想の女性像にぴったりの女ではなかったかと思います。丸顔で鼻がちょっと反り、肥っていて清潔で、食事の世話が上手で、会話には決して口出ししませんでした」

ジョルジュ・ボルトリ(杉辺利英訳)『スターリンの死』ハヤカワ文庫

 スターリンに仕えるのは、党員であれ、政府高官であれ、メイドさんであれ、大変だったようです。例えばスターリンの別荘の庭の草むしりをしているとして、そこへ通りかかったスターリンがたまたま機嫌が良くて何か言葉を掛けたとします。そうすると、その女中はあとで秘密警察のお呼び出しがかかるとか。これほど緊張を強いられる職場にいたメイドさんも少なかろうと思います。そのスターリンに18年間も仕えた家政婦は、一体何を見たのでしょうか。彼女をテーマに「家政婦は見た!」とか映画を作ったら面白いかもしれない、とか考える人は少数派でしょうね。でもどうですか?「家政婦は見た! トロツキー暗殺指令の出た日」とか? 「家政婦は見た! 金日成の密使」とか?・・・もうやめときます。

(連載第5回)


#今週のお洒落

 旅行の一般化やオープンエア運動による外出が日常的になると、靴やストッキングと同様に、ペチコートも急速に注目を集めることになった。
「ドレスの裾を上げるとき、下着は視線に晒される。ペチコートはどんなに豪奢に作っても充分ではない」という次第である。1877年にはこんな記事も登場している。
 シュミーズ、ドロワーズ、アンダースカートはますますたくさんのレースで縁取られ、縫い込まれるようになった。今や我々の召使いでさえ、少なくとも二列の縫い込みと裾にレースがあしらってあるものでなければ軽蔑している。

戸矢理衣奈『下着の誕生 ヴィクトリア朝の社会史』講談社選書メチエ

 女性の衣服を切り口にして、当時の女性雑誌を主な情報源に、ヴィクトリア朝期の社会に迫った面白い本です。衣服自体の歴史ももちろん非常に面白いのですが、衣服の変遷と関係しあっている様々な事象、例えば鉄道や自転車、電燈やガスストーブ、百貨店にブロマイドなど、様々なテクノロジーが登場し、それが人々の美意識をどのように変えていくか、変わってゆく美意識がものの変化にどう作用してゆくか、万物の繋がりに思いを巡らす近代史の醍醐味が味わえます。身体(しんたい)論というのはやはり昨今旬なんでしょうか。などとかっこつけなくても、メイド趣味な人なら楽しめることは請け合いです。あとやっぱこういう本って、作者がそのジャンルにどれだけ愛があるかで面白さが決まるんでしょうかねえ。

(連載第4回)


#今週の階級闘争

 私は同じキリスト教徒にも私たちと下層階級の二種類があることに出し抜けに気づき、戦慄を覚えた。召使いは私たち子供をほんの小さいころから、「ロバート坊っちゃま」、「ロザリーンお嬢さま」、「クラリッサお嬢さま」などと呼ぶようにしつけられていたが、まさかこれが敬意を込めた呼び方だとは知らなかった。「坊っちゃま」や「お嬢さま」は他人の子供に話しかけるさいの接尾語だとしか思わなかった。それがいま、召使いは下層階級で、私たちは「私たち」なのだとわかったのである。

ロバート・グレーヴズ(工藤政司訳)『さらば古きものよ』岩波文庫

 第1次大戦を描いた文学作品として、ドイツ側の『西部戦線異状なし』に並ぶ作品として評価されているそうですが、日本での知名度は余り高くないように思います。ロバート・グレーヴズも詩人・作家として有名な人だそうですが、筆者はこの本を読むまで知りませんでした。彼はイギリスの伝統ある家系に生まれ、幼いころからイギリスの伝統的文化のもとで育ったのですが、パブリックスクールや戦争での経験を通じてそれへの批判を述べた自伝が本書です。といっても、文中に沢山出てくる文学者の話は、無教養な小生にはさっぱり分からないのですが、第1次大戦が好きなミリオタ(残念ながら日本には殆どいませんが)ならずとも、普通に読んで面白い本ではあるでしょう。メイドさんの話は直接には余り出てこないけれど、メイドさんを取り巻く文化状況を知るにはいいと思います。

(連載第3回)


#今週のベル・エポック

 こうした鞭打ちの嗜好は、1900年前後の倒錯した貴族階級において、さらに広がっていった。この時代は、女中を主人が思うようにできると考えていた時代であって、当時の写真からは貴族階級の閉塞した奇妙な娯楽性を窺い見ることができる。それらの写真では、優しさに欠ける婦人が、大抵は上品ぶった衣裳を着て、時には帽子をかぶり、むき出しにされた若いメイドの尻を鞭打っている。

大類信(編)『サドマゾヒズム覚醒する愛』河出文庫

 河出文庫から出ているグラフィカ・エロティカの確か3巻目だったと思います。昔々のそういう絵を集めたコレクションです。時代柄メイドさんが登場してるものもいくつか見出せます。基本的に画像ばっかりですが、中に数ページの解説があって、そこから引用しました。なかなか示唆されるところの多い解説でした。それによると、このサドマゾな写真の流行は第1次大戦を越えて20年代にいよいよ盛んになり、「革とラバーの特殊な装身具」つまりボンテージ装束、所謂女王様スタイルの発明(?)は1935年なんだそうです。ちなみにそのころ日本では、責め絵師伊藤晴雨が縄で縛るほうの世界で大きな貢献をあげておりました。そういう時代だったんでしょうか。

(連載第2回)


#今週の推理小説

「わたくし、もともとあの娘はあまり好きじゃありませんでした。使用人としては申し分ありませんでしたけど。きちんと“はい、奥様”と言いますし、制服の帽子やエプロンを着るのも文句は言いませんし(このごろのメイドは、たいてい嫌がるんです)、パーカーのかわりに玄関に出て応対しなければならないときも“お留守でございます”とすらすら言えますし、たいていの小間使いは、お食事のお給仕をするとき、妙におなかをごろごろいわせるものですけど、あの娘にはそんなところもありませんでしたし―あら、わたくし、何のお話をしていたのかしら?」

アガサ・クリスティ(田村隆一訳)『アクロイド殺し』ハヤカワ文庫

 メイドさんのイメージ形成にあたって、日本人の場合、クリスティはもっともそれに貢献した作家かもしれません。筆者も多分そうではないかと自分では思っています。ヴァン・ダインの「推理小説二十則」では「召使なんぞのような重要じゃないキャラクターが犯人なんてダメ!」という、偏見にみちみちた項目がありますが、クリスティ作品ではメイドさんがしょっちゅう登場し、しばしば重要な役を演じます。それは看護婦という職業婦人の経験を持った、クリスティならではのまなざしといえるでしょう。そのクリスティ・メイドの中でも個人的に一押しなのが、あのトリックで有名な『アクロイド殺し』のアーシュラ・ボーンです。上の引用は、登場人物が彼女を評したものですが(パーカーは執事の名)、彼女の秘められた真実とは……って、推理小説なのでこれ以上は書くわけにはいきません。

(連載第1回)

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