何はともあれ現代のメイドさん文化、オタク文化といえばその中心は秋葉原。本年はつくばエクスプレス開業という大きな変化があり、さらに街の変化が文化
の変容にどう繋がるか、興味は尽きないところです。今回は現遺研のレポート第1回の舞台として秋葉原を選び、この地に興亡したメイドコスプレ喫茶やそれに
類する業態のお店の跡地を探訪してみましょう。 秋葉原という街は、中央通りを南北の縦軸として直交座標系のように道路がめぐらされ、割と道の分かりやすい街です。横のX軸に相当するのは総武線の高架 橋でしょう。 その高架橋の少し南に、今回最初の目的地である Maid Cafe Lamm が入っていたビルがあります。 このビルは7階建て全館がラムタラで占有されており、メイド喫茶は6階にありました。現状では6階はイベントスペースということですが、普段は使用され ていないようで、エレベーターのボタンも押せなくなっています。7階はスタッフルームなので、結局現在の売り場は地下1階〜5階までということですね。5 階から6階に通じる階段では、『ファイナルファンタジー X−2』の宣伝用ポップに張り紙を貼り付けた看板が立ち入りを拒んでいました。もなQさんのサイトを参照するに、この看板自体は3月の閉店時に急造したもののままのようで、ただ当初「只今 Maid Cafe Lamm は休業中」と表示していた箇所を、完全閉店に伴って「こ れより先は関係者以外立入禁止です」と、張り 替えたもののようです。 ラムタラを出て総武線の高架をくぐります。土曜の昼、ごった返す人込みの中、見るからに怪しげなおっさんが、声を張り上げてポケットティッシュを配って います。 「イ ンディーズのAV女優がきますよ〜ぅ」 ちょうどそこを通りかかった、アキバ系と聞いて十人が十人思い浮かべそうな、色白 で太めで眼鏡をかけた中学生程度と思しき少年が、受け取ってしまったそ のポケットティッシュの広告を覗き込んで、連れの友人たちと何やら興奮気味に喋くっています。道徳家が見たら憤慨しそうな、しかし見ようによってはちょっ と微笑ましい、そんな一コマでした。秋葉原は決して「二次元」のみに占有されているわけではないのです。 群集の頭上を上滑りしていくおっさんの声から、十年ばかり前にこの場所で聞いた、ビラ配りをしているマハーポーシャ(注1)の店員の「マハポは安いっ!」という叫び声がふと、筆者の耳朶に甦ってきた のでした。 中央通りを北上し、地下鉄の末広町駅に近いところまでやって来ました。なんでも中央通りに東面したビルに、漫画喫茶DenDen という、店員さんがメイドさんの恰好をしていたコスプレ漫画喫茶があったそうです。2003年12月と、先程の Maid Cafe Lamm と同じ頃に開店しましたが、翌年5月には早くも閉店してしまいました。筆者はこの店の営業時の訪問経験が無いので、どこがコスプレ漫画喫茶だったか覚えが 無いのですが、住所からすればこの一角であったことは確かです。 それにしても、コスプレメイド喫茶が半年で撤退する一方、ほぼ同じ場所で問題が指摘されているような商法がより長期にわたって行われているということ は、なんだかなあと思います。怪しい露店より問題じゃないかと。 まあ、秋葉原の「萌え」産業自体が、街ぐるみの壮大な展示会商法であるといえば(以 下自粛) コスプレ漫画喫茶跡地は、秋葉原にもう一箇所あります。漫画喫茶 DenDen 跡地から西側に入った一角にあるビルの4階が、かつては漫画喫茶 Laplace でした。現在その跡地はコスプレ居酒屋 LittleBSD に なっています。同じビルの3階にはメイドコスプレ喫茶 Cos-Cha があります。開店は Laplace も Cos-Cha も2003年5月でしたが、後者が現在なお盛業中であるのに、Laplace は2004年2月には閉店してしまいます。翌月には現在の LittleBSD が開業し、こちらも現在までちゃんとやっているところから、結局のところ、コスプレ漫画喫茶という業態はどうも成功しにくそうなのではないかと思われま す。まあ、漫画喫茶は漫画を読むのに視覚を使ってしまうから、店員さんがどんな恰好をしていてもあまり影響力が無い、あったらあったで漫画喫茶本来の目的 に差し障る、ということなのかもしれませんね。 話が先走りました。これが Laplace の跡地です。 この末広町駅南西方面は、秋葉原電気街の範囲からすれば外れの方ですが、メイドコスプレ喫茶のパイオニア Cure Maid Cafe や、その後のビジネスモデルに大きな影響を与えた Cafe Mai:lish も立地しており、そちらの方ではむしろ中心なのかもしれません。 と、辺りを観察すると、Laplace の跡地のはす向かい、露店が開かれている後ろの建物に、気になる文字を見つけました。 その理由は、街の来歴を振り返れば、ある意味当然の話です。秋葉原電気街振興会のサイトを 見ると、「1890年(明治23年)に上野から鉄道が延長されて、新しく当地に駅が開設されることになり、駅名は「秋葉原(あきはばら)」と名付けられ、 その名前が一般化し、全国的には「あきはばら」という読み方が定着していく」と記されています。実はこの駅は貨物駅で、旅客駅ではありませんでした。当時 は自動車が無く、都市内交通には水運が大きな役割を果たしていました。そこで、上野から神田川まで貨物線を引っ張って、水陸の連携を良くしようとして出来 たのが秋葉原駅だったというわけです。その交通の便の良さから、青果市場が開設され、秋葉原は物流の拠点として栄えます。大田に移転した青果市場の跡地が 現在再開発で「秋葉原クロスフィールド」になった訳ですね。 さて、上掲の振興会サイトですと、「秋葉原」の読みが「あきはばら」になったのは、貨物駅ができたからだというように書いていますが、どうも貨物駅時代 は「あきはばら」じゃなかったんじゃないかと、筆者はある本を読んでいてふと思いました。その本とは島秀雄編『東京駅誕生 お雇い外国人バルツァーの論文 発見』鹿島出版会(あ、そういや再開発も鹿島建設だったな)という本で、東京の鉄道網が如何にして形成されたか、そ れにドイツから来た技術者たちが与えた いろいろな影響、について記された、なかなか面白い本なのですが、表題にもなっているバルツァーの論文とは、1903(明治36)年にドイツで発表された もので、東京の鉄道網を如何にすべきかという構想が述べられています。 当時は東海道線・甲武鉄道(現中央線)・日本鉄道(現東北線)・総武鉄道(現総武線)と各方面の鉄道がてんでにターミナルを構えていましたが、この論文 では、各線を中央駅(今の東京駅)まで延長し、山手線を環状にするという、現在の鉄道網の原型が示されています。さらに、中央線〜総武線の連絡も考えられ ています。その地図がこれ(同書4ページ)。 というわけで1890年貨物駅開設時の駅名は「あきはのはら」駅だったのではないかと思われます。読み方は他にも「あきばはら」「あきばっぱら」「あき ばがはら」とかいろいろあったようですが、貨物駅を設けた日本鉄道当局は「あきはのはら」にしたようです。 さて、ではいつ「あきはばら」駅になったのでしょうか。その手がかりは、永井荷風(カフェー好きでしたね)の日記『断腸亭日乗』の1926(大正15) 年7月12日にありそうです。 ・・・烏森より高架線にて上野に往く。秋葉ヶ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。(以下略)荷風先生は「あきばがはら」派だったようですが、それはともかく、東京〜上野間が高架線で結ばれ、秋葉原駅に山手線の電車がやってきて旅客も扱うように なったのは、1925年11月のことでした。この電車に荷風先生は乗り込んで、「アキハバラ」の読みを初めて耳にして憤慨したわけですから、読みが変わっ たきっかけはこの山手線の駅開業にあったのではないでしょうか。今年は80周年記念ということになりますね。ちなみに山手線の高架開業に合わせて、貨物駅 の方もエレベーターを何基も装備した高架立体貨物駅という、かっこよさげだけど使いにくそうな駅に改装されたそうです。その跡地が、先日オープンしたヨド バシカメラです。 とまあ、荷風の日記を引用して「秋葉原」の読み方の変遷を辿るところまでは、既に指摘がありますので、ここでは後段に注目してみましょう。「鉄道省の役 人には田舎漢多しと見えたり。」、なんでもない悪口のようですが、これには裏があるんじゃないか、それが筆者の推測です。というのも、当時鉄道省の建設局 長という重職(この高架線建設の総責任者)にあった技術者出身の鉄道官僚、八田嘉明(はった・よしあき注2)という人がいるのですが、この人、東京高等師範附属中学の時、荷風と同級生だったんですね。で、八田は当時の ことを回想してこう語っています。 同窓の変わり種の一人、永井壮吉君(荷風)も初めは仲よしの一人であったが、卒業に近い頃から彼は制服をやめて頭髪を分け、黒つむぎのはおりはかまで通 学していた。あるとき地理の時間に、彼は先生の講義を聞かず小説本を読みふけっていたので、われわれがこれを難詰したところ、彼は昂然として、わが輩は将 来文豪を志しているのだと答えたので、放課後われわれ数人は彼を運動場に引き倒してその長髪をはさみで切ったことがある。それ以来卒業まで、いっさいわれ われと口をきいたこともなく、全くの絶交状態で過ごした。これは八田の没後に編まれた追悼文集に収められた遺稿の一節です。この長髪ちょん切り事件は、荷風の伝記では寺内寿一 (てらうち・ひさいち注3)という、父が軍人にして米騒動で首相を辞めた政治家・寺内正毅、その七光り でのち陸軍元帥になった人物の仕業とされていますが、八田は寺内と親しかったようで、つるんで荷風をいじめたようです。まあ、文化系趣味の人間がスクールカーストで 体育会系みたいな連中より低位におかれていじめられるというのは、何も最近の話じゃなくって、明治の昔からあったということ。どころか、この時代のほうが 遥かに酷かったというべきでしょう。注目されるのは、この頃鉄拳制裁される「軟派」には、女子供の読むものである小説なんぞを好きな奴だけでなく、女の子 にもてようとする連中も含まれていたということです。「硬派」な連中ってのは衆道・・・。だから筆者は思うんですが、『電波男』が恋愛資本主義を批判する のには勿論意味があるとはいえ、オタクを生きづらくする状況の根っこは、むしろ「硬派」のような男性中心主義、マッチョ イズムにあるんじゃないかと。(注4) それはともかくとして、荷風髪切事件は秋葉原に山手線が開通した頃からしても三十年前の話、荷風がそんなこと覚えていたのかって? 絶対覚えていたに違 いありません。だって、さっきの八田の文は、このように続いているのです。 終戦後われわれの代表として、今村繁三君(岩崎小弥太氏とともに中村春二氏を後援し、今の成蹊学校の基礎を築いた人)が市川市の永井君の住居をたずねた ところ、彼は玄関のふすまのかげからちょっと顔だけ出して一言「帰れ」と答えて、そのまま引っ込んでついに出て来なかった。そしてその三年後、彼は文豪の 名を残してこの世を去ったのである。心温まるお話で すね。荷風は死ぬまで忘れなかったんです。 八田は建設局長の後、鉄道次官、貴族院議員、平沼内閣の拓相、近衛内閣で拓相と商工相、東条内閣で鉄道大臣と初代の運輸通信大臣、と累進しており、当時 から結構知名の人でした。きっと荷風の「田舎漢」三文字には、中学の頃の怨みが込められていたんでしょう。 ちなみに、建設局長として秋葉原駅を通る路線を通した八田ですが、駅名を「あきはばら」と読ませたのが彼の発意とは限りませんね。造るまでが仕事だか ら。となると、駅名を漢字のままに読むようにさせたのは誰か・・・というのですが、よく分かりません。ただ、一人思い当たる人物がいます。種田虎雄という、この頃運輸局旅客課長や運輸局長を務めた人です(注5)。 八田が技術系の大物なら、種田は営業方面で巨大な足跡を残し、当時の新聞に「鉄道の 種田か、種田の鉄道か」と書かれたほどです。その彼がやったことの一つに、右書き旧仮名遣いだった駅名表示板を、発音通りの左書きに改め た、ということがあります。戦前にですよ。例えば 「ふふか」→「こうふ」 という感じですね。 何で種田がこんなことをしたかといえば、彼の義理の従兄弟が国語改良論者として知られた国語学者・保科孝一という人で あり、その影響があった、ということが挙げられます。(注6)「あ きはばら」化の主犯として、なかなか怪しいですね。もっとも、秋葉原旅客駅が開業した時、種田は九州の鉄道局長をやっていて、開業直後に運輸局長として中 央に戻ってきているので、直接携わったかはちょっと怪しいのですが、彼の同志というべき人々(八田もその一人と、種田の伝記にあります)が大勢いましたか ら、影響はあったと見て良 いのでは? と思います。何より、種田が漢字の読みにこだわったんじゃないかと筆者が思うのは、彼自身の名前の読みに理由があります。 種田虎雄、これは「おいた・とらお」と読みま す。知らなきゃ読めるかっつーの。(注7) とまあ、秋葉原は鉄道網の発展と縁が深い土地なのです(ああ、やっと話が戻ってきた)。思えば中央通りの下の地下鉄の開通も早かったし、路面電車もあっ たし。 その中央通りを渡って、秋葉原を睥睨する再開発ビルの方へと向います。末広町駅の東側辺りはあまり電気関連の店もなく、 ここから少し南に下ると、2003年の11月に開店、今年1月に閉店した Wish Doll と、2003年12月開店、早くも翌年2月には閉店してしまったという e-na-mail cafe の、 2軒のコスプレ喫茶が同じビルに同居していた場所です。どちらもいろいろ怪しいところがあったようですが、ともあれ、2003年末に一つのバブル な波があってコスプレ喫茶の類が秋葉原で続々開店したものの、その多くが経営的には成功を収められなかったようです。ブームの一つの曲がり角だったので しょうか。 再開発で建った巨大ビルの麓で、目的のビルを探します。筆者はどちらの店にも訪問経験がないので、住居表示を頼りに辺りをうろうろします。えーと、ネッ トの情報では、パソコン店の向かいとか書いてあったけど・・・ここか? もはやここにコスプレ喫茶を2軒も擁したビルがあったということを偲ばせてくれるものは、何もありません。ここも再開発ついでに建てなおすのでしょう か。 再開発で建ったビルは、あたかもこの解体工事現場を見下ろすように聳え立っています。
秋葉原の変化は、交通、特に鉄道の変化と密接な関係があり、それは街の名前さえ変えてしまいました。秋葉原には1932(昭和7)年に総武線が開通し、 山手線の高架橋の上にさらに高い高架橋を通したため、秋葉原の特徴ある景観を作り出しました。そしてその高架橋は、戦後神田須田町界隈に多かった真空管な ど電気部品を扱う露天商が、露店を撤廃せよというGHQの命令を受けた時、彼らをその下に収容する役割を果たしました。高架橋は電気街形成の重要なファク ターだったのです。秋葉原は名前も商売も景観も、高架橋と密接な関係があったわけです。高 架橋が造った街・秋葉原。 2005.10.31. 墨東公安委員会 |
注1マハーポーシャはオウム真理教経営のパソコン
店。信者である従業員の強い忠誠心により労働コストを切り下げ(つまりタダ働き)、販売価格は安かったという。逝っちゃった目の店員によるビラ配りは秋葉
原の風物詩であった。 注21879〜1964 東京帝大工科大学土木工学科卒。鉄道業に従事、鉄道次官まで務め 1929年から政界 進出。本文中のように大臣を務めた他東武鉄道の会長ともなる。戦後公職追放されるも、復帰後は拓殖大学総長、日本科学振興財団会長、日本縦貫高速道協会会 長、日本高架電鉄(現在の東京モノレール)社長などを務めた。技術者出身官僚としては相当に出世した人である。関係文書が国立国会図書館憲政資料室に所 蔵。 注31879〜1946 陸軍大学校卒。1933年、ゴーストップ事件で警察に噛み付き、軍と警 察の対立に発 展させる。1936年、2・26事件後組閣された広田内閣の陸軍大臣となり、組閣に多くの横槍を入れ、軍部大臣の現役武官制を復活させ、その後の軍部の専 横の基盤を作るも、国会で軍部批判をした浜田国松代議士に噛み付き、かえって逆襲を喰らって逆切れ、広田内閣を崩壊させる(腹切り問答)。太平洋戦争では 南方総軍司令官を務めるが、彼の実戦での活躍を筆者は寡聞にして知らぬ。戦後南方で抑留中に病死。日本陸軍の駄目なイメージの具現者みたいだ。 注4アメリカのコロンバイン高校の銃乱射事件の背景にも、体育会系(かの地ではジョックスという そうだ)によるいじめがあったとか。犯人どもは「ジョックスは死ね!」と叫んでいたという。 注51884〜1948 東京帝国大学法科大学卒。高等文官試験に合格、国鉄に入る。以後本文に あるような活 躍をした後、1927年に官を辞し、大阪電気軌道の専務に迎えられ、のち社長となる。大阪と奈良を結ぶだけの一私鉄だった同社が伊勢へ名古屋へと進出、現 在の近畿日本鉄道へと発展するのに大きな貢献をした。戦後公職追放され、復帰せぬまま亡くなった。彼と同世代で仲の良かった鉄道官僚が新幹線を作らせた国 鉄総裁として名高い十河信二であり、種田も長生きしていれば戦後に更なる活躍が出来たであろう。 注6このことの経緯については、保科孝一が次のように語っている。 「運輸局長時代にいろいろ画策された大きな問題がありましたが、そのうち私にとって忘れることのできないものは、鉄道各駅の駅名標を左横書きにして発音ど おりに書き改められたことであります。これはかねてから私の熱心に主張してきたものでありますが、種田君はこの問題を取り上げ、時の鉄相に進言してこれを 実現されたのであります。私は君の勇気と果断にふかく敬服するとともに、私の長いあいだの主張を取り上げてくれられたことを大いに感謝したのであります。 ところがその後、小川鉄相は、極端な超国家主義の人でありましたので、左横書きはわが国体に反するものであり、かなづかいを改定することも古来の伝統を破 壊するものであるという観点から、せっかく書き改めた駅名標を旧に復させたのであります」小川平吉鉄道大臣は、利権ばら撒き政治を行って私鉄疑獄を引き起こし、自らも獄窓に繋がれるに至り、政党政治への信頼を大きく損なった。ちなみに小川鉄相 時代 の鉄道次官は八田嘉明である。八田もどうも国家主義というか、東洋思想っぽいようなことに関心を抱いていたようだ。荷風とは合わないわけだ。 注7:注6の『種田虎雄伝』は、種田の出身校である東大の図書館にも所蔵されているが、図書検索 をかけると「タネダ トラオ デン」と登録されていることが分かる(笑)。国会図書館は流石に大丈夫かと思いきや、「オイダ トラオ」になっている。嗚呼。 参考にさせていただいたサイト http://air.littlestar.jp/cafelist.htm http://www.pluto.dti.ne.jp/~rinou/maid/koubouki.html 厚く御礼申し上げます。 |