女中類従


その1
躾のためには女中奉公

 メイド趣味の皆様方でしたら、モップ・フェアという言葉を聞いたことのある方も多いと思います。奉公人を雇う市のことですね。といってもこれは主に近世の話で、いわゆるメイド服が幅を利かせていた時代には田舎でしか見られなくなっていたようです。
 さて、そのモップ・フェアに相当するものは日本にも存在したわけなのですが、これが江戸時代であれば当然すぎて話題にもなりません。ところが、なんと昭和の御代になっても、ところによってはこの近世的雇用習慣が存続していたのです。
 以下にお目にかけますは全関西婦人連合会の機関誌からの引用です。全関西婦人連合会というのは、大阪朝日新聞の後援のもと、1919年に結成され、以後毎年、西日本の各種婦人団体を糾合して大会を開催していた全国最大規模の婦人団体です。その成立には長谷川如是閑なども関わっていたとか。引用したのは昭和7年5月号、前年に満洲事変が発生し、この月には5・15事件で政党内閣が崩壊しましたが、戦時体制の強化は緒に就いたばかり、まだのどかさが残っていた時代でした。
 なお原文は縦書き、無論旧漢字に旧仮名遣いですが、電子化の都合上、新字体・現代仮名遣いに修正させていただきます。また振り仮名も省略し、必要と思われる場合のみカッコで付しました。
長門滝部の奉公市
世にもめずらしい 下男下女の取引市

 山口県の片田舎に、世にも重宝無類な、下男下女の取引市?があります。下関市と萩町とを繋ぐ北浦街道の、殆ど中間にあたる小邑で、豊浦郡滝部村(注:現豊浦郡豊北町)−そこに毎月一日、十日、二十日の三回、必ず開かれる奉公市がそれです。同地方ではこれを女中市或は単に市とも呼んでいますが、下女、下男、子守その他農業出稼人などの被傭者と雇主とが直接談合して雇用契約の取り決めをする公開の機関なのです。最も盛んなのは、農繁期を前にした四、五月の十日、二十日の二回は、近郷近在から続々と雇傭双方の人達が押し寄せて、街路も埋め尽くされるばかり、此方の軒先、彼方の木蔭で「使ってお呉(く)れ」の男女を中心に幾十、幾百組の小集団が額を集めて契約を取り結んでいる図は、まさに一奇観たるを失いません。
 年若い村の娘を中に囲んで、荒くれ男や年増女が、ひそひそ語らい合っているところを旅の人でも見掛けたら、婦女誘拐かなんぞと早合点するかも知れないが、この市場の取引契約は、全く雇傭両者の自由意志により、もしお互のいずれかに相手を欺く心があれば、恐ろしい神罰を蒙るであろうとの、堅い信仰と知恩報徳(ちおんほうとく)の精神を基調として、話を進めるので、大抵の場合、契約はすらすらと取り結ばれるのが常だそうです。
 両者の契約が成立したら「奉公約束之証」という一種の契約書を取り交わします。昔はその場で、半紙に認(したた)めて、双方の拇印を捺したものだそうですが、現在では、滝部の村役場で古様式に準拠して印刷し、雇傭両者はこれに必要な要項だけを書きこんで、署名捺印するだけになっています。
 この契約書で変わっているのは、給料のことを恩米、恩金と称えている点で、これはこの奉公市の創始者が、雇傭双方の徳性涵養の見地から、知らず識らずの間に感恩感謝の道念を植えつけようとした深慮に他ならなかったとうかがわれます。
 昨今の男女契約給料は、普通三ヶ月決めとして、働き盛りの作男が恩米五俵に恩金百円、普通の男で恩米四俵に恩金五、六十円というところ、女は一律に恩米二俵と恩金二、三十円という相場で、農、漁村疲弊の今日としては実に破格の給金だといわれ、雇傭契約の数(すう)も、世の中の不景気と反比例して、漸次増加の傾向を示しているそうです。
 この現象は労力の提供者である同地方の青年男女が、誠に勤勉で、定められた給料以上に働くということが最大の原因であり、最近鉄道その他の交通機関が整備した結果、相当遠隔の地から求人の手が差し延べられて来るに至ったのも、一つの誘因と見られています。
 この奉公市で特に注目に値するのは「使ってお呉れ、雇ってお呉れ」の男女が、必ずしも家貧(ひん)にして、その日の生活に困るから出稼ぎをするというのではなく、中には相当富裕な家庭の子女も、自ら進んで他人の飯を味(あじわ)わん ものと、下女下男の登竜門ともいうべきこの市場に進出して参ることです。若者は徴兵前の修養に、乙女はお嫁の見習いに―同地方では一年なり半年なり、他人の中で揉まれねば、一人前になれない。青年男女の躾は奉公にやるのが最も効果的だとされています。で、嫁入り前の娘たちで女中奉公の経験がない者は殆どありません。中には修養のための女中奉公が縁となり、主家の若旦那との恋が実を結んで、そのままお嫁として居座るのもあれば、先方の親御たちに見込まれて、正式の縁談整い、花嫁御寮に納まったという芽出度(めでた)い例も多々あります。

 長くなるので後半は省略しますが、この奉公市は江戸時代初期の天和・元禄のころに始まったそうで、そもそも市自体は戦国末期の大永年間、大内義隆の遺臣・中山弾正なる人物がこの地に寺院を建立しこの地の開発に当たったことに端を発するそうです。「知恩報徳」というのもその人のスローガンだったとか。
 さて、「破格の給金」以上に働くそうですが、当時の貨幣価値はどの位だったかといいますと、大雑把に言えば当時は今の五千倍というところでしょうか。この頃の月収の平均は男95円、女35円60銭くらいだったそうです(都市と農村でかなり違うでしょうが)。米の値段は白米だか玄米だか分からないのですが、まあ田舎のことですので玄米と仮定し、一俵を四斗としますと、当時の玄米の卸値で計算すると一俵あたり8円75銭くらいのようです。もっともこれは、一年分の食糧として支給されたと見るべきでしょう。ちなみにこの頃の制服系女性の職業として、バスガイドが月給46円、エレベーターガールが27円だったそうです。さらに脱線すると、
 京橋河岸通のとある路地にバラックのカッフェーあり。女給外に出で通行の人をとらへ寄り添ひて私語する様甚(はなはだ)いぶかしければ、入りて見るに、女四、五人あり。参円にて淫を売るといふ。

(永井荷風『断腸亭日乗』昭和7年5月1日)

 本題に戻りまして、学校制度が未発達な前近代では、今日の高校・大学くらいの感覚で奉公に行く、ということがありました。最近大学生の企業へのインターンてのがはやりだしていますが、奉公の変形なんでしょうか。まあ少なくとも、昨今声高に提唱されている奉仕活動なるものよりは合理的ではあろうかと思うのです。そして、女中さんとかメイドさんにふさわしい言葉も、ご奉仕じゃなくって奉公と主張して、結論に代えさせていただきます。

おまけ:下関市公式サイト
(豊浦郡豊北町は合併により現在下関市となっています)
また、旧滝部小学校は歴史民俗資料館になっているそうです。
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/houhoku/kanko-7.htm

(墨東公安委員会さんからの寄稿です)
(引用部の字飾はMaIDERiAで付け加えています)


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