女中類従


その3
名家の女中頭の知られざる実態

 アガサ・クリスティなぞ読んでいますと、イギリスの貴族や地主のお屋敷では、女中頭(家政婦と訳されることも多いですが)に始まって執事やら秘書やらぞろぞろ出てくるのでありますが、日本にはそんな家あったのかなあ、とか思っていたらこんな材料が見つかりました。
 以下に挙げるのは今も続く婦人雑誌の代表『婦人公論』1933(昭和8)年5月号掲載の記事です。紹介されているのは西園寺家春風高校の生徒会長…のわけはなくて、かの西園寺公望なのであります。
 西園寺家は藤原氏の流れを汲む公卿の家(注:公卿の序列は一番上が摂政・関白になれる五つの摂関家、それに次ぐのが大臣になれる九つの清華家で、西園寺家はこれに属する)、明治維新後は侯爵(注:功績により1920年公爵に陞爵)となりました。西園寺公望は20代に十年間フランスに留学して自由主義思想に触れ、のちに伊藤博文の後を継いで政友会の総裁となり、首相を務めました。まあ詳しい経歴はちょっと調べれば分かるでしょう。
 大正以降は「最後の元老」として日本政界の重鎮となります。元老は憲法に規定のない存在ですが、次期首相を決める力を持っていました。西園寺は立憲政治と英米協調外交を重視して首相を指名しつづけますが、満州事変以降のファッショ化の流れを変えることは出来ず、同じ公卿出身として後継者に目した近衛文麿も期待と外れ、国の行く末を案じつつ、1940年91歳で亡くなります。元老という調整役を失った一年後、大日本帝国は太平洋戦争に突入し破滅への路を突き進むのですが、それはともかく、その元老時代、西園寺は一年の大部分を静岡県は興津(おきつ)の坐漁荘(ざぎょそう)という邸で過ごしていました。この時期多くの政治家が「西園寺詣で」「興津詣で」に励みますが、これはその西園寺を陰で支えていた女中頭のお話です。
(注:原文ママ)の大奥
西園寺公のお綾さん

佐々木初彌

 東海道の興津町、といえば、誰でも元老西園寺公を思い、坐漁荘を浮かべる。(中略)
 此処、坐漁荘、西園寺公のお台所、所謂大奥総取締をお綾さんという。今年二十九歳(注:数え年)、打ち見たところ、厚からず薄からずの肉づき、肩のあたりの丸い線が張って色白美人、住友家から選ばれて廻された京都の女。老公の好みをよく心得て、頭のてっぺんから、足の爪先きのことに至るまで老公の身辺のこと、ついている糸屑一つ取り去るのも、このお綾さんの手でなくてはなすべからざることになっている。
 西園寺公の起居動作といえば、その面貌が総てを物語るように、誠に几帳面、坐漁荘邸内の一木一草のうごきすらもよく知悉しているくらいで、そこの長廊下、塵一つ浮いても気にする始末の性格なので、老公の身の廻りを処理するものの細心の注意、尋常の婦人ではよくするところではないが、このお綾さんは、お叱言(こごと)一つ頂戴したことがない。筆者は、この老公の生活そのものを可成り詳しく調べたことがあるが、坐漁荘内一女人の直話によると、お綾さんの性格そのものが、今日では、老公のそれにぴったり合致融合しているかに観られる。老公の心境を、よく諒知察得(りょうちさっとく)して、閑寂の境地におのずから融け合う―その醍醐境地に、お綾さんも至っていると解してよい。
 嘗(かつ)て、この坐漁荘には有名なお花さんという美人がいた。やはり坐漁荘大奥のすべての最高支配に任じ、巴里講和会議(注:第1次大戦の講和会議、1919年)にまで、老公のおともをして、地中海あたりでも、白粉気(おしろいけ)たっぷりな話を咲かしたお花さん。そのお花さんのあったころの老公と、今日の老公とでは、世間の眼も、周囲の目も異り、老公自身も可成り変わって来ている。お花さんのいた頃は、古刹の庭内に紅い牡丹の咲いている感じがしたが、お綾さんの存在は、馥郁の香におう蜜柑のそれである。風あってうごく邸内の空気、蜜柑もゆれるが騒がしさがない。老公顔を崩せば、お綾さんもほほえむ。このお綾さんあって、老公の身辺は、まさに春風駘蕩である

 異常にとがった神経の持主たる老公の傍(そば)にあって、一種の飽和心境を崩さざらんと努力するお綾さんは、訪客の一挙一動にも、細心の注意を払う。苟くも老公の神経に触れるものは許すまいと、微細な点にまで、監視の目を注ぐ。(中略)
 一体、坐漁荘の訪客なるものは、一定の限度制限が、不文律となっている。大臣になったからといって必ずしも、老公面接が可能という訳にゆかない。(中略)坐漁荘詣でが出来る身分になっても、お綾さんの存在は、無視すべきではない。意外な失念から、『重大な結果(グレート・コンブエクセンス(注:great consequenceか?))』を招いた例がある。重要報告、当然長時間に亙るものとの予想でいたものが、
御前様、あまり長いとお体にさわっては―』
『ああ、左様か…』
 お綾さん囁けば、易諾する老公である(中略)
 坐漁荘への贈物は、いささか面倒である。八十路を越えた老公、摂取のすべて、食物の如き丹念な吟味の後である。鶯のそれの如く擂餌(すりえ)をとっているとさえ言われる老公である。それに老公の好みもある。
『そんなことは、お綾に聞いて貰えばいい
 軽く答える老公である。お綾さんに聞けば、贈物などは小面倒なといった顔をする。送り上手貰い上手、一物の贈供でよく百物をつかむ利権屋、その撃退法でもあろうが、贈供物に対しては、坐漁荘は至って厳格である。(中略)折々配達されても、同じものが再び同じ手数をかけて、返送される。潔癖の老公、素性の判らない贈呈などに一瞥を与えないためでもあろうが、お綾さんの苦心閃くためであることはいうまでもない。鮮魚、野菜、所謂お台所物がちょいちょい県庁から届く。水産試験場、農事試験場、よく出来たからという意味であるが、一応坐漁荘お台所の都合を知ってから後のことである。すべてはお綾さんの都合きいてからの事なのだ。擂餌つくるかどうかは別として、老公の食膳の事、決して外観をゆるすべからずとするお綾さんの鉄則からである。
 しかし、客あって、坐漁荘の手製を不可能とする場合は、静岡の料亭『佐の春』に注文がゆく。お綾さん自ら電話にたち、塩の味から刺身のことにまで、細(ほそ)い条件が出る。『佐の春』といえば、静岡では二と下らぬ昔ながら庖厨の技で鳴った料亭。
『他の注文と異り、お国のため大切な方だと思えばこそやりもしますが、ああ話がこまかくては、どっちが庖丁もちかわかりませんので、ヘイ』
 愚痴を言ったものである。尤も、日本料理については立派な一家言を持つ老公、そこを利口に立廻らんとするお綾さん、配意努力の一端と見るべしだが、庖厨の徒にとっては、しかし片腹いたいことではあるかも知れない。
 尤も、場所かわって、東京における駿河台の本邸、乃至は、蚊が舞い出すと、ひどく興津を嫌って毎年の七月から九月に至る三ヶ月をおくる富士裾野御殿場の別荘における避暑期間の事は、存外、楽であるらしい。というのは、夏期の日本料理は、面倒なこといったとて、はじまらない。毎朝、箱根富士屋ホテルから自動車で、洋風食が、はこばれる。お綾さんの注文条件は出ない。洋風食に関する限り、お綾さんの干渉外なのであろう。前のお花さんは、これと逆、日本料理の知識に缺けていた。お綾さんの洋風食無関心、これは京育ちの女性における一失ともいうべきであるかも知れない。
 老公は朝の起床、まず六時半前後というところ。(中略)床を出る前に、必ず体温を測る。脈を見る。しかして一服の強壮剤、神経痛の予防と糖尿病にたいする異常なる警戒である。床を出ると早速湯殿へゆく、いかなる朝でも必ずきまって剃刀をあてる。所謂象牙の面の化粧である。この体温や脈の計算、乃至はお湯殿の世話、無論お綾さんに限られた日課である。丹念なものである。
 午前八時半の朝食、オートミルにバタトースト、きまって出る。食後に果物と熱い番茶。昼は白い御飯、添物三四品、焼魚も食膳をかざる。かざるだけで、あとはお綾さんがいただく。夕食六時前後、日本食である。近頃きまったように、灘の生一本が出る。その一本を傾けつくさないうちに、大概目を細くする。巴里の講和会議に、灘万(なだまん(注:京都の有名な料亭))の親爺におだてられてもっていった頃は、可成り強かったが、老来だんだん少量になった。一本の底の方にどの程度にのこすかは、その日の老公の健康状態を巧みに打診するお綾さんの手腕である。大体が、鶯の擂餌風であるから、食事は無論少量で、お綾さんの方が上手である。若い女盛りだからだ。例の大患以来(注:1930(昭和5)年春に当時80歳の西園寺公望が罹った肺炎のこと)ぐっと減っている。其の他の嗜好物、いろいろあるがその日によって異る。健康加減、お天気次第、お綾さんの見計いである。京仕込みのすすめのうまさ、任されているのだ
 訪客なき時は、昼は読書。新刊書もよく読む。好みのフランス書、さて漢籍、日に何冊かを替える。悠々たり閑々たり三昧境であるが、倦めば愛玩の蘭いじり、夜はラジオのニュースだけは、お綾さんはじめ女中たちと一緒に、耳を傾ける。うつりゆく世相に耳を働かす訳だ。就寝九時前後。
 そこで一歩進んで、坐漁荘大奥、老公と日常、起居をともにしている所謂家族を見る。まず筆頭が女中頭のお綾さん、その下に四人の女中さん。みな京都そだち鴨川の水を使った白肌艶色な娘ざかり、住友家の手を通じて坐漁荘に入ったものばかりである。別宅をもっている老執事熊谷八十三氏。下働きをする牛塚孝蔵という若者。以上が坐漁荘である。この総支配が、お綾さんである。
 もう一つ坐漁荘特有の人々がある。それは例の五、一五事件(注:この前年に発生)以来、世の騒然たるにつれ怪しきものも坐漁荘に接近するので、警戒陣がひどく厳重になった。静岡県庁や所轄清水署から配備された警官十八名、静岡憲兵隊からの憲兵二名、これも坐漁荘内別棟の宿舎にある。殆んど準家族として、老公をめぐって起居している。この方面にも、お綾さん、異状なる権勢を持っている。
 (中略)ここの警戒は実に難物である。厳重に過ぎて肩肘張ると大奥と衝突する。(中略)お綾さんから叱言が出る。叱言が出るから、警官との間にも、とかくの葛藤を生む。
 お綾さんの前任者、お花さんの後継者であったお悦さんも、警官との間に、いざこざをおこした。京都木津町の旧家八木久太郎氏の娘さんだったが、間もなく敗戦してお宿下がりして、今は他に嫁している。今年あれば二十四歳(注:数え年)、世間的にはお花さんがあまり喧伝されたあとなので、光が消えたが、見様によっては、綺麗であった。坐漁荘の宰相、偉大なる勢力ある女中頭が敗戦したといっては、語弊があるが、お宿下がりの一因にはなった筈だ。自分より六十以上も上の、象牙のように冷たい老人の傍で可惜(あたら)青春を消すに忍びないとして、御免蒙ったこと無論である。
 が、お綾さんは、強い意志力を持つ。且つは背景は金光七彩、老公がいる。警官など眼中にない。今の警衛主任岩城某、(中略)身辺に昨今転任説がポツポツおこっているという。避くべからざるところへ来たためであろう。(中略)

 一転して、東京駿河台本邸、一年か二年に一度の上京のことに及ぶ。そこでの老公の滞在は只事ではない。宮中との関係、政変重大事の際のみに限られる。従って、内閣の人々、大官巨頭の出入織るが如くで、極めて多忙である。しかし、それは表面のこと、裏をのぞけばまた別種のものが展開されている。(中略)  駿河台の夜、邸内余閑のときもある。老公のお許しがあり、誘われるままにお綾さんにも外出がある。誘いは無論、政界や実業界の婦人連。旨をうけて来る人々である。ゆくは歌舞伎、さて演舞場、お綾さんの日頃の苦労、気散じのために招待されるのである。一夜の芝居、大したおよばれではないが、お綾さんの聡明は、かかる際にも警戒が動く。応諾許否、いたずらにしない。その性質をよくのみこんでいるからこそ、老公も安心して、邸外に出ることもゆるすのであろう。
 さあれ、御殿女中の宿下りに、芝居見るのが浮世の極楽といわれたように、今も昔も、芝居は女性で栄える。艶冶な空気、蠱惑の雰囲気、女性にはいい感触にちがいない。と、言っても、お綾さんに御殿女中の怡楽(たいらく)を連想しては失敬だが、必ずしも嫌いではないようだ。坐漁荘の起き伏し、潮波滄浪とはちがって、歌舞音曲の総合境は、また格別な慰安となること間違いはない。
『きょうは、大変いい日曜をさしていただきました』
 老公の膝前、嫋(たお)やかに身を折るお綾さんである。七曜の区別は問題ではない。暇の時を、即ち日曜と思いこむお綾さんなのだ。

『偉いもんですよ。親疏(しんそ)おのづから区別がちゃんとつきますしね』
 静岡県の知事や、警察部長がよく言う。(中略)今、老公の秘書として、坐漁荘と内閣との間の連絡係として一週数回づつ往復する男爵原田熊男君、あの聡明を以てしても、お綾さんの胸中を測りかねることが、おりおりあるらしい。
『坐漁荘の女性は、いささか難物…』
 こぼすこともある。浮雲(うきぐも)出没判らぬが女性の胸にしても、お綾さんの肚裡いかなるものが徂徠しているかを、真正に観取し得るものは、老公以外には求めがたいかも知れない。それでいいのだ
 が、しかし、一体何がこうまでお綾さんを偉いものにしたか―お綾さんにその資質があるのは素よりだが、老公にもし正室があったらどうであったか。それは何所(どこ)の、何人の家庭にしても同じである。正室の厳存するあらば、女中頭は要するに女中頭である。老公に缺けているもの備わらざるもの、その特権の代行者というところに、お綾さんに二倍の威力を与えた。こう見てもよかろう。すべての解釈は、そこから出発すべきだ。老公は、いな西園寺家は、今も昔も、正室を置かぬ家憲がある。西園寺家初代の藤原通季(みちすえ)卿と愛妾、月窓断琴(げっそうだんきん)というナンセンス風な伝説もあるが、とにかくこの伝説にからむ正室不置の家憲は、続きつづいて、公望公に至ってもやぶるところとならずに、厳として行われている(注:西園寺家は琵琶を家の芸としていた。その音楽の神様とされる妙音天は弁財天と同一の神様とされ、そのため西園寺家の当主が正室を迎えると弁財天が嫉妬して祟りがあるので、正室を迎えないという伝説が流布した。但しこれは俗説で、事実に反するそうである)。若くして仏蘭西に学び、自由主義を唱えた老公も、この点、至って従順墨守者である。八十五歳(注:数え年)の今日まで、只だの一日も、正妻というものをもったことがない。
 そのかわり、新橋で、玉八の名で、嬌名一世に鳴った小林きく子をを掌中の玉としたり、福沢桃介君(注:福沢諭吉の娘婿)と三角関係に陥ったがついに老公が勝利者となった、新橋中村屋のふさ奴こと中西ふさ子との灼熱の恋。さては有名なお花さんとの艶話、老公の私生活は、必ずしも索漠たるものではない。が、とにかく、坐漁荘の大奥、あげてお綾さんの総支配である。老公の身体こそは、医者と、床屋と、お綾さん以外は、絶対触るべからざるところである

 春酣(たけなわ)は、すでに興津は葉桜の頃、頽齢(たいれい)といっても老公未だ健康をたもち、所謂超非常時の今日、国家のためまことに慶賀すべきであるが、その余生のすべてをあずかるお綾さんも、内秘的に見て、その存在は尊重さるべきである。お綾さん女盛りの二十九歳(注:数え年)、いよいよ、その聡明の輝きを望んでやまないのである。

―八、三、三十一日稿―

 文中に先代の「お悦さん」と先々代の「お花さん」という人が出てきます。この二人について、別の本から引用しておきます。1932年6月、つまり上の記事の一年足らず前に出版された『西園寺公望伝』(田中貢太郎著)という本です。
 公(注:西園寺公望のこと)情史の中に、お花さんを除くべきであるか、除くべからざるかは問題である。八郎氏(注:公望の養子)新聞記者がお花さんのことで騒いだ時、記者に一喝をくわしたことがある。
お花は、侍女(めしつかい)です、諸君は、何と思っとるか知らんが、』
 世間はお花さんを勿論侍女(じじょ)と思っていたが、しかしただの侍女でないと云うことも思っていた。
 そのお花さんが世間から騒がれたのは、公が平和使節として所謂雪月花旅行(注:前述のパリ講和会議。日本全権はあまり発言しなかったことから、観光旅行と揶揄された)の前後で、お花さんは公の身のまわりのお世話をすると云うことで、ともに同行した。
 本名は奥村花京都の生れで、痩せがたの美人であった。あまり頭のいい女でなかったが、一時は公の信任が厚く、公の財政まで司っていた。お花さんが公とともに帰朝した直後、竹越氏(注:竹越与三郎。新聞記者から西園寺に認められ政治家となる。評論家でもある)が駿河台で昼飯の饗応(ごちそう)になった時、お花さんが接侍(おきゅうじ)をしてくれたので、
『日本にも、そろそろ、婦人参政権が与えられるようになるかも知れないが、そうなるとさしずめあなたなどは、世間に人気があるから、女代議士で出るんですね、』
 と云ったが、お花さんは、『婦人参政権って何だろう』と云うような顔をしていたと云うことである。お花さんは一度料理番とへんな噂が伝わったので、西園寺家では料理番を出してそのままにしておいたところが、住友銀行員で大阪支店詰になった若い男と、またへんなことになったので、中川氏(注:中川小十郎か。西園寺の秘書を務め、また立命館大学の創設者。余談であるが、立命館の名は西園寺が若き頃私邸に開いていた私塾の名に由来する)が承知しないで、とうとう京都の親元へかえしてしまった。此のお花さんはまもなく淋しく死んで往った
 お花さんがいなくなると、西園寺家では、出入の人たちに頼んで、そのかわりになるものを探していると、それを聞き伝えて写真をつけた願書が数百通も来た
 西園寺家の要求する資格は『特に身分素性を厳にし、学芸は勿論、一とおりの修行を積んだ、純真な乙女と云うことであった。
 厳選の結果、そのおめがねにかなったのが、京都府相良郡木津町大字城戸、八木文太郎氏の長女、ゑつ子さんという十九(注:数え年)の女(むすめ)であった。
 それは昭和三年四月のことであった。八木家は土地の豪家であった。彼女は京都華頂女学校を優等で卒業して、仕舞は奈良の金春(こんぱる)の家元に、茶の湯活花、いずれも皆伝と云う申しぶんのない資格であった。
 政界の重鎮たる老公爵。そのそばに忠実に仕えるうら若き(数えを満年齢に換算する時は1乃至2を引きます)女中頭。錚々たる政治家たちもおいそれとは動かせぬ元老の心を、たやすく察するその奉公ぶり。政界の狸どもも形無しです。お綾さんの存在が政治家たちにも一目置かれていた話が、具体名を数多く挙げて述べられています。まあ、馴染みのない名前が多かろうと思って、ばっさり削除してしまいましたが。注釈つけるのが面倒だったし…。
 食べ物の話も面白いところです。老公のためには料亭を辟易させることも厭わず、怪しい贈り物は返送してしまいます。もっとも、別の本には西園寺は「糖尿の気配があるので米を食わずパンのみ」だとか、さらに別の本には「昼はポテトを食し、ないと機嫌が悪い」とか書いてあり、どれが正しいか分かりません。なにお召し上がりになってたんですか、老公?
 ついでに朝お茶を飲むとありますが、別な本によるとこれば煎茶(無論高級な玉露)で、勧めた人曰く「これは女中などに入れさせたのではダメ で、自分が立てたのでないと、うまくないことに面白味がある」だそうです。煎茶道と云うのもあるらしいので、紅茶とは話が違うようですね。ついでに言えば、西園寺は葡萄酒の銘柄にも通じていた由。
 また、お綾さんの西園寺への呼びかけ『御前様』も面白いですね。主君に呼びかける言葉なのであります。それならば、島津家なら守護大名→近世大名という歴史を踏まえて、『お館様』なんて言ってたかもしれません。いや明治にそれはないか。
 とはいえ、この女中頭の地位も、奥様がいないためである、という『婦人公論』記者の指摘は大いに納得のいくところではあります。

 参考までに掲げた、前任者のお花さん・お悦さんの話しもいろいろ妄想の余地があります。西園寺との関係を囁かれたお花さんは勿論ですが、お悦さんというのも興味深い点が多々あります。
 女中頭と云いますと、何とはなしに、メイド歴うん十年の叩き上げ=お歳を召したおばはん…と考えてしまいがちだったのですが、どうもそうではなく、女中を束ねる女中頭のリクルートは平の女中と別ルートで行われる場合があったようですね。女学校卒業、舞踊茶道華道皆伝…なるほど。ヒラの兵卒と将校では、やはり学歴が違うようで。それにしてもお悦さん、数えで19と云うことは、満年齢なら18歳女学校卒業即西園寺家女中頭大抜擢と云うことになります。1932年6月の本ではお綾さんは登場せず、1933年3月末執筆の記事では既にお悦さんは解任されているところを見ると、お悦さんの任期は5年に満たなかったことになります。やはり西園寺家女中頭は荷が重かったのでしょうか?
 注意深い方は二つの記事でお悦さんの父の名が違っていることに気がつかれたかもしれません。実際のところこれは原文のままなので、どっちかが間違っていることになりますが、これは今後の課題ということでご勘弁を。

 西園寺公望は1940年11月24日逝去しますが、最後の言葉は「おい、顔の髭が伸びたから、剃ってくれ」だったそうです。毎朝の髭剃りは女中頭の任務だったそうですから、生前最後に言葉をかけてもらったのは女中頭だったということになります。記載はないですが、おそらくお綾さんが最後まで務めていたのではないでしょうか。

 なお、更なる妄想に耽りたい方は、犬山市の明治村に坐漁荘が移築保存されていますので、見に行かれるとよいかと思います。筆者は見にいったことがありますが、和式建築で案外こじんまりとしていました。西洋風の『お館』とは違いますが、かえって女中たちと西園寺が身近な関係のようで、妄想するぶんにはむしろいいかもしれません(?)。
 最後に蛇足ながら書き添えておきますが、いくらパリ留学10年をはじめヨーロッパ生活合計19年の西園寺といえど、女中の服装は和服でしたので、そこんとこ間違えないで下さいね(笑)。

(墨東公安委員会さんからの寄稿です)


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