メイドさんを熱く語ろう!


その5
西の方で見た巫女とかメイドとかその他思い出すこと

 水曜日の午前中、数日前に開業したばかりの秋葉原はメイド喫茶・Cos-Chaの一隅に、何やらひそひそと密談をこらしている怪しい二人の男がおりました。なにさま怪しかったもんですから、店員のメイドさんも近寄ってこないくらいです。一人が広げていたのは目前に迫ったコスチュームカフェ関西店のカタログ、もう一人はJTBの大判の時刻表を抱え込んでいます。そう、まさにこの時、MaIDERiAプロデューサー渡辺順一氏と筆者こと墨東公安委員会は、サークルはじまって以来の関西遠征という大事業に備え、対策会議を開いていたのでした。
「ところでこの店のメイドさんだけど、ミニスカートのメイドってどうよ?」
「しかしストッキングが白なのは歴史的には正しいですな」
 一体何を対策しているのやら。
 まあ、かくして始まった怒涛の週末、その顛末は以下の如し。

1.センチメンタル・ジャンキー

 金曜日の夜、筆者は夜行バスで旅立つべく東京駅に向かいました。東京駅の大地下街といえば、実はかわいい制服のお店も少なからずあることでも知られています。ちょっと寄り道して見に行きましょう。そういえばもう2年も前になりますか、『旦那様と呼んでくれ』の酒井シズエさんと初めて会った時の飲み会は、ここの地下街のニュー・トーキョーでやったものでした。この店は思い当たるさんの『街で見かける可愛い制服』(新紀元社)でも取り上げられていたくらいの制服で・・・あれ? 場所ここだよね? 制服変わってるじゃないかっ!
 がっかりして地上に上がり、バスを待ちます。ひっきりなしに輻輳する長距離バス、雑踏する乗り場。鉄道趣味者の筆者ですが、この雰囲気はこれで良いものです。でも、なんでここにK−BOOKSの大きなポスターが張ってあるの?
 初手からついていないような予感に襲われますが、乗り込んだバスの席は二階の最前列中央という位置だったのでちょっと機嫌を直します。バスは23時20分出発。しかし筆者は寝付けぬまま、名古屋へ折々通っていた昔のことを思い出すのでした。目をつむれば瞼に浮かぶのは、の美しい姿

 2000年の夏のこと、筆者と高校以来の友人一同――たんび氏仙地面太郎氏編集長氏――は今はなき名古屋の巫女居酒屋・月天を訪れたものでした。さいわいその旅行の最中、筆者は詳細な記録を付けていましたので、今でもその時のことをかなり明確に跡付けることができます。
 だいたいこの旅は発端からして電波極まりないものでして、旅立ちの日はMaIDERiAプロデューサー渡辺順一氏、仙地面太郎氏、たんび氏、猫一号氏、ヘリトンボ尊師に筆者といった面子が集まって、コミケに出す本のネタを作るため日がな一日美少女ゲームをやって過ごしたのでした。その時の顛末は「原辰徳前監督」の『釈』に詳しいのでそちらを参照していただければ幸いです。この本が「原辰徳」の旗揚げでした。ちなみに筆者はその前夜、神戸屋とアンミラに行ったレポを徹夜して書いていましたので、プレイ中半分寝ていました。思えばMaIDERiAもまだ草創期でしたね。
 そしてこの夜筆者は夜行列車で西へ・・・って名古屋へ行ったわけじゃなくて、遥か西の下松(山口県)の鉄道車輌製造工場を大学のサークルのイベントで見学していました。余談ですが、当時そこの工場では極秘プロジェクトとして浦安ネズミーランド(仮称)のモノレール車輌を作っていました。極秘ということで写真撮影禁止なのはもちろん、その車輌についての説明もいっさいお断りということでしたが、窓の形を見れば正体は一目瞭然。浦安出銭ランド(仮称)はことほど左様にうるさいわけですが、それから間もなくしてこの車輌の写真がネットで流されるという騒ぎがあったそうです。誰がやったんだか。
 その次の日は、広島電鉄の車庫を見学したり、呉線に乗って女子高生のセーラー服を眺め「呉で見るセーラー服は風情もひとしおだなあと感慨にふけったり、そごうでシャーリー・テンプル近澤レース店のお仕着せを観察したりしたのち、宮島へ。そこで別経路で旅していた仙地面太郎氏と合流します。
 宮島の神社は、拝観料を払って入った境内のさらに奥に、別料金の宝物殿とかいうのがあったのですが、その宝物殿の料金を徴収すると思しき窓口のところにいたのが巫女さんでした。もう夕方で入る人もいないのでしょう、椅子に浅く腰掛けて足をのばし、リラックスして本を読んでいたその姿は、とても印象的でした。長く綺麗な黒髪の巫女さんだったことを、今でも覚えています。
世界遺産ですなあ」
「まさに世界遺産ですねえ」
 思わず仙地氏と筆者とは同じ感想に達しました。これだけの世界遺産を見たんだから、今更宝物殿に用は無し
 さて、センチメンタル・グラフィティーというゲームがそのころ人気があったそうで、それはセンチメンタル・ジャーニーという題でアニメにもなっていました。筆者は仙地氏から「このアニメに出てくる鉄道の描写は正しいのか」とチェックを頼まれたので、ビデオを貸してもらって全話見たものでしたが、12人もいるとさすがにキャラクターの名前なんぞ覚えられません。しかし鉄道趣味者の面白いところで、筆者はセンチのキャラを見ても名前は分かりませんが、どこに住んでいたかは覚えているのです。
 で、センチメンタル・ジャーニーの広島の人は、台風のさなか宮島の展望台みたいなところに登ってペルセウス座流星群を見ようとするのですが、その展望台を探そうというのが仙地氏の目的でした。筆者もお供します。とりあえずロープウェーがあるので、それに乗って頂上を目指すことに。世界遺産指定のお蔭か、外国人旅行客の姿も目につきます。
 ロープウェーの終点に着いてみると、そこが展望台みたいになっていました。階段の具合やあずまやの形がアニメを彷彿とさせたので、まあここであろうと結論を下し(くたびれていたので)仙地氏は写真など撮影しておられました。氏はここに来る前新潟を経由して、その地のアニメイトでこのアニメのグッズを購入しておられたので、ひとつそれを使って撮影されてはどうか、あるいはそれと仙地氏がひとつのフレームに収まりたいのであれば助力は惜しまない旨を伝えたのですが、仙地氏が余りに真剣に拒否されるので実現には至りませんでした。
 帰るころにはロープウェーは終ってましたので、徒歩で下ります。多分センチのアニメで広島の人が台風の中歩いて登ったルートもここになるのでしょう。夜とか雨天に通るのは絶対に止めた方がいいと思いますが。道中仙地氏は二日前のイベントからギャルゲーについて意見を述べられ、萌・泣・鬼畜に三分類して論じられていましたが、当時としては卓見だったと思います。
 さて、これで連れ立って名古屋へ・・・行ったわけじゃないんですね。宮島口の駅で筆者は四国へ寄る仙地氏と別れ、またも夜行列車に乗って東へ。

 思い出に耽っているうちにいつしか眠りこけておりました。気がつけばバスは岐阜の駅前。時間よりも早く着いたようです。

2.日野橋の車窓から

 美しいものは何度見てもいいものです。しかもそれは美しいだけではなく、日本の歴史の一角をも体現しているのです。しずしずと筆者の目の前に現れたそのの姿。これを見るために中京圏まで出掛けてきた甲斐があったというものです。
 上半身が輝くような白色、下半身は目にもあでやかな赤色そして何といってもチャームポイントは楕円形をした窓
 え、巫女さんになんで窓かって? そもそも巫女さんの話なんかしてませんよ。岐阜まで出掛けてきたのは、名鉄のモ510形電車に乗るためです。ほら、この電車、上が白で下が赤でしょ。しかもこの電車は現役稼働中の電車としては日本最古参なので、歴史的にも貴重な存在なのであります。巫女の装束がいつから現在みたいになったかなんて分かったもんじゃありませんが、こっちの電車の来歴ははっきりしています。大正生まれなのです。ドアの戸袋窓が楕円なので“丸窓電車”として親しまれていました。


名鉄モ510形電車
(北野畑駅にて2001年9月26日撮影)

 この電車は数年前まで揖斐線や谷汲線というところを走っていましたが、一旦引退して予備車になり、2001年9月いっぱいで谷汲線が廃線になるときに一時さよなら運転をやっていましたが、その後活躍の場を失っていたところ、今年2003年が登場77周年記念ということで、美濃町線というところ(『電車でGo』の舞台にもなったので、ご存知の方もいるかと思います)で週末に復活運転ということになったのでした。余談ですが、筆者が谷汲線を最後に看取りに行ったのはその年の9月26日でしたが、これは奇しくも日野橋ブロンズパロット閉店のちょうど一年後でした。別段日付を合わせて行ったわけでもないのですが。


ついでに美濃町線のモ590形電車「日野橋」行き
(徹明町電停にて2003年5月10日撮影)

 というわけでこの日、鉄道趣味者がごっそり岐阜の街中に繰り出し、砂糖にたかるアリの如き様相を呈していたのです。筆者もたんび氏ともども丸窓電車に席を占めました。話は前後しますが、岐阜についた筆者は朝食を摂ってから岐阜市内の路面電車を撮影し、この丸窓電車が出発する徹明町という電停そばのコンビニでコスカにて販売する『大正でも暮らし』のコピーをして時間を潰しておりました(コスカ関西店で頒布した『大正でも暮らし』はローソン金園町店製であります)。そして名古屋からやってきたたんび氏と合流、氏も鉄道趣味に造詣が深くJR全線完乗という人なので、筆者の旅に同道してくれました。
 大正生まれの電車がごとごとと関めざして道路の上を走ります。この線は路面電車と普通の軌道が混在しているのが特徴です。と、途中の駅で乗り込んできたご老人が、我々の隣の席に座りました。あまりの混雑ぶりに目を丸くして、一体何か行事でもあるのかと我々に問い掛けてこられました。我々はこの電車が特別運行だということ、古い電車なものでそっち系の趣味の人間が集まっているのだと説明しました。このご老人はこの沿線に生まれた時から住んでおられ、通学や通勤にこの線を利用、引退した今は実家に月に一度くらいこの線で通っておられるそうです。バスもあるけど、排気ガスがやりきれないとのこと。確かに路面電車を撮るため岐阜市内を歩いていた時の実感では、行き交うバスの排気ガスはかなり酷いものでしたから、その言葉はおおいに首肯できます。
 このご老人は大正12年生まれだとおっしゃいましたので、大正15年製のこの電車とはほぼ同じ時を歩んでこられたことになります。お孫さんが来た時にこの路線に一緒に乗ったら、路面を走ったり普通の電車になったりするので大喜びしていたとか。
 地元の方の昔話に耳を傾けているうちに終点の新関に到着。もちろん乗ってきた連中の大半(たんび氏と筆者含む)はそのままこの電車に乗って折返します。ことのついでに駅で限定グッズの「名鉄510形チョロQ」を買い込みます。筆者はおよそグッズと名のつくものは資本の陰謀と思い込んで絶対に買い込まないタイプの人間ですが、ことこの電車関連とあっては話は別です。でも1100円暴利だよなあ・・・
 帰りの車中、すれ違いのためある駅でしばらく停まっている時、ホームのベンチにこのチョロQを置いてしゃがみこんで写真を撮っている人がいました。どうやらモデルの電車とこのチョロQを一枚の写真に収めようということのようです。その時はなかなか面白いことを考える人がいるな、くらいしか思いませんでしたが、それがあとであんなことになるなんて。

3.ためして月天

 岐阜に戻った我々は、今度は三重県の三岐鉄道という線を乗りに行きます。そのためには先ず桑名に行く必要があるのですが、一旦名古屋に戻るのも馬鹿らしいと、大垣を経由して近鉄の養老線というローカル線を通っていくことにしました。
 養老線車中では、地元の高校生が床に車座になって座り込み飲食に携帯電話に傍若無人の有様を、たんび氏は「我々の経験しえなかったああいう人生もあったんですねえ」と寛容な中にも刃を含んだまなざしで観察していました。話は自ずと回顧譚になります。

 ところで、筆者がたんび氏と美濃町線を旅したのは今回がはじめてではありません。先程話を途中で打ち切った2000年夏月天探訪、本来の目的は当時支線数区間の廃止が予定されていた名鉄を乗ることにあったのです。宮島を後にした筆者は夜行列車と新快速を乗り継いで名古屋に向かい、たんび氏そして編集長氏と合流し、名鉄を二日掛かりで全線乗ったのでした。この間、数多のいかれ鉄道ヲタとか、ゴーストタウン竹鼻銀座だとか、ラジコンカーをヒモで引っ張りながら街路を疾走する謎の少年(ガキ)とか、岐阜羽島の駅に聳え立つ大野伴睦夫妻の銅像だとか、編集長氏が丹下桜のイベントに寄り道したり、たんび氏がモスバーガーを買うために電車を遅れさせたり、仙地氏がセンチメンタル・ジャーニーの舞台となった坪尻駅(四国の無人駅)から電話をしてきたり、筆者がグランアルティザンはじめデパ地下を梯子してみたり、珍談奇譚多々あれど、紙幅の都合上省略せねばならぬのは残念でなりません。
 で、とにかく、2000年8月6日の20時ごろでしたか、我々は月天に辿り着いたのでした。名古屋の夜空は不気味な紫色に曇り、それを背景にこれも怪しげな意匠のテレビ塔が百メートル道路を睥睨していました。如何にもそれっぽい人たちがたむろするのをかきわけ、地下の店に入ります。面子はたんび氏と編集長氏、再び合流した仙地氏、そして筆者です。

 まあ月天そのものについては随所にレポートがすでにあることですから、いまさら本稿で付け加えることはないでしょう。巫女装束のウェイトレスさんの「お客様は神様ですからなんなりとお申しつけ下さい」という台詞に感心したこと、でも茶髪でどうかと思ったこと、その名も「シャーリー・テンプル」というソフトカクテルの存在に大受けしたこと(仙地氏が飲んでいました)、などなど。居酒屋としては値段相応に良かったのではないかと思います。しかし、この時の月天訪問には決定的な問題がありました。それは、隣で大騒ぎしているオフ会連中です。

 もうそれは余りに喧しくて、我々どうしの話にも差し障りがあるくらいです。同人誌がどうしたコミケがどうしたと、如何にもそっち方面と分かる話題が聞こえてきます。遂にぶちきれた編集長氏が、むんずと財布からコミケのサークル入場証およそ60枚の分厚い束を掴み出し、こうのたもうたのです。
これ一枚やるから出てけ! と言いたいな
「いや、あの連中なら、これ一枚やれば我々の勘定も全部持つと思いますが・・・」
 説明が遅れましたが、編集長氏は実はコミケットの某部門の幹部職を務めており、氏の部下のための入場証を持っていたという次第なのです。ちなみに本当にコミケのサークル入場証を売る馬鹿者は必ず突き止める由で、皆さんもそういう不届きなことをしてはいけません。
 月天も、あの隣のオフ会さえなかったら、もっとよい印象を持つことができたでしょうが。

 ちなみにこの翌日、筆者は他の三人と別れ(まったくもって統一行動しない連中ですな)明治村を覗きに行っていました。明治村のレストランとかの制服が、袴とかだったりしないかなと不届きな発想で見に行ったのですが、無論そんなことはありませんでした。それでも明治の衣裳で写真を撮ってくれるコスプレ写真館の見本を調べ、「明治の女学生スタイル」の袴が海老茶だったので、「やはり女学生袴は海老茶だよな」と我が意を強くしました。
 また、外国人の貿易商が住んでいたという建物が移築されていて、それは二階建ての建物二棟(洋式の本棟と、和式の別棟)からなっていましたが、面白いことに渡り廊下で二階どうしがつながっていました。そして、別棟の方は中に階段が無くて一階と二階が行き来できないのですが、その隔離された別棟一階が女中部屋だったのだそうです。その一方で、幸田露伴の家というのは和式の建築ですが、間取り図を見ると女中部屋と露伴の部屋は僅か襖二枚を隔てるのみです。ここらへんの対比は面白いものです。西園寺公望の坐漁荘が移築されていたのも目を惹きました。
 他にもミュール精紡機だとか蒸気ハンマーだとか、筆者には興味深いものが色々あって楽しめました。「をを、松葉スポーク車輪!」「をを、イコライザーのバネの位置が昭和と違う」など、一般人がおよそ気がつかないであろうところに感動しているという点では、デパ地下でのふるまいと大差ありません。
 ついでにこの日は、何か教育関連のイベントでもあったのでしょうか、夏休みだというのに制服姿の女子高生がいっぱいいて(男もいたのかもしれないが覚えちゃいない)、しかも色々な学校から来ているらしく様々な種類の制服があり、これはこれで博物館的状況だったといえるかもしれません。

 思い出話にふけるうちに電車は桑名に着き、そこから三岐鉄道の北勢線(三月までは近鉄でしたが、赤字で廃止するというのを地元の三岐鉄道が引き取りました)に乗ります。この線はナローゲージと言って、普通の鉄道よりレールとレールの間の間隔が狭い(JR在来線の約四分の三、新幹線などと比べて約半分。ちなみに浦安ネズミーランドのウェスタンリバー鉄道も北勢線と同じ間隔。鼠ランドの汽車を作ったのは福島県のメーカーだそうな)ので、電車も小さくこじんまりとしています。走る路線もまるで路地裏みたいな雰囲気でした。と、やがて田園に出るとそこは青々とした麦畑が広がるのどかな風景。まだ麦秋とまではいかないようですが、目に心地よい景色でした。
 北勢線の終点からタクシーで三岐鉄道の本線の方へ移動します。この線は日本では珍しく貨物輸送が活発で、石灰石輸送のための巨大な積み込み施設などが目を惹きました。また終点を始め沿線の幾つかの駅に古い車輌を保存してあったのも、面白いところです。この線の電車は西武のお古でしたから、西武沿線住民のたんび氏は「この電車には昔乗ったことがあるかもなあ」と感慨深げでした。沿線は北勢線と比べ麦畑よりも水田が多いような印象を受けました。
 ところが、そのような様々な目を楽しませてくれるものの存在を全て打ち消すような恐るべきものが、この車中にあったのです。それは学習塾の広告なんですが・・・「教育サ○ライ」という地元の塾なんですが、これの手作り(プリンタで印刷して手作業で貼りつけて中吊りサイズにしている)広告のなんと電波なことよ。サイトもありますのでこっそりご紹介(ttp://www.ed-supply.co.jp/)しておきますが、中吊りのセンスはもっと遥かに凄いよ。
 教育ってのは、ある種こういう“狂気”が必要な場合があるのかもしれないけれど。


「教育サプ○イ」の中吊り、ぶれているのはご寛恕を。
これでも電波ぶりは感じ取っていただけるでしょう。
(三岐鉄道車内にて 2003年5月10日撮影)

4.ロミオのやおい空

 さて我々は三岐鉄道を乗り終え、近鉄で名古屋へ。月天もグランアルティザンももうありませんが、一方でその名が早くも全国区になっているコスプレ喫茶 M's Melod巫女茶屋というスポットが生まれたとの由、一つ見に行ってやろうと大須へ地下鉄で向かいます。
 とりあえず大須観音まで来て、さてどこにあるのかな。・・・事前調査のいい加減さがばれますが、一応弁解するとM's Melodyのサイトには、メニューはあってもなぜか地図がなかったのです。あてどなく大須の街を歩きまわる筆者に、たんび氏も呆れ顔です。商店街地図を前に考える筆者。
コスプレ喫茶などという特殊な店特殊な街にしかない
 ↓
 特殊な街とは秋葉原のような街である
 ↓
 従ってパソコンショップのありそうなところを探せばきっとあるはず
という完璧な三段論法が頭に浮かび、方針は忽ち決しました(そもそもどこが店を経営しているか考えれば早かったのですが)。この方針の正しさはすぐに証明されました。

 先に見つかったのは巫女茶屋の方でした。商店街のアーケードの中、万松寺の真ん前です。茶屋として好立地ですが、巫女さんにもよく似合う・・・ん、寺? ま、近世まではどうせ神仏混淆だし、名古屋だし、細かいことは気にしてはいけません。早速突入。
 店内は駄菓子屋と半分同居しているみたいです。割合とこじんまりとして、ついでに他の客も余り居りませんでした。巫女さんは二名。巫女の装束は余計な付属品がないだけ月天のそれよりも優れているといえますが、袴の脇の切れ込みがずいぶんと深いように思われました。
「何でまたざっくりと袴の脇が切れ込んでるんでしょうかね」
「そりゃ、チラリズムでしょう」
 にべもないたんび氏。
「ふーむ、名古屋ではああいうのが受けるんでしょうか」
 たんび氏は目下名古屋住まいなので筆者はお伺いを立ててみました。
「そうでしょうねえ。名古屋なら風俗にも巫女さんの衣装とか有りそうじゃないですか。『お伊勢プレイ』とかいって。きっとそういうとこで研究とかしてるんですよ」
 氏は名古屋に住んでますます名古屋への偏見を深めてしまったようです。
 なお付け加えておきますと、月天と共通の問題がひとつ、とは巫女さんがショートヘアのうえにばりばりに茶髪にしていて、おまけにアイシャドーこってり化粧してるのはどうかと思います。世界遺産への道はなお険しい
 なんてこと言ってますが、我々の巫女茶屋への評価は実は極めて高いのです。とは注文したひやしあめが実に旨かったからで、大須の商店街をぐるぐる歩き回って(筆者は同人誌50冊相当の負荷つき)草臥れた体に染み込む甘さが心地よいものでした。生姜の効き具合も程よく、価格面含め茶屋としては充分なものだと思います。あとはまあ、巫女の方でもうちょっと努力を。
 筆者は先程買い込んだ510形電車チョロQを開封し、茶屋の机で緋袴の巫女さんと「どうしの対面」などと称して試走させて喜んでいました。ただのイタい人ですね。

 さて巫女茶屋を出た我々は、今度は M's Melodyを瞥見しました。グッドウィルのいかにもヲタク向け書籍などを扱うフロアに同居しているというのが面白いところです。しかし、そのためにフロアの配置が苦しくなってしまっているのではないでしょうか。我々はそこの書籍のラインナップを調べ、更なる充実への努力が欠かせない、という結論に達しました。ことにたんび氏は、やおい本の品揃えの乏しさを指弾しておられました。もっとも今にして思えば、書泉ブックマートを比較基準にしていた我々が間違っていたのかもしれないですが。
 ちなみにたんび氏は名古屋でのやおい書籍収集の拠点を、カードで割り引きが効く三省堂に置かれていたそうですが、何でもそのサーヴィスが廃止になるそうで、ますます名古屋にいるのが嫌になったと嘆いておられました。年間うん十万のやおい本を買う氏には大変重要な問題です。その点小生は未だ学籍ある身なので、生協で一割引という特典を享受できるという恵まれた立場にありますが、さすがにもりしげの『こいこい7』を買う時は勇気が要りましたね。
 え、本屋の話はどうでもいいから早く M's Melodyに入れって? いや、それはごもっともなれどかなわぬ話。我々はエムメロ前にたむろする行列 を見て、面倒になって帰ってしまったもんで。ロシア人ではないので行列する趣味はなかったし、それに、今回はエムメロの制服、猫耳だったし。

 この晩筆者は、たんび氏宅に宿を借りました。せっせと『大正でも暮らし』を製本したのち、目方で計れば既に全盛期の小錦を越えているであろう氏のやおい本コレクションの一部を拝見します。というのも、筆者が敬愛してやまぬマンガ家ナヲコ先生(以下敬称略)がひところ別ペンネームでやおいマンガを描いていたそうで、それを見るのが目的でした。
 その雑誌は一水社から出ていた『ロミオ』という雑誌なのですが(現存せず)、その4号から6号まで「ささだ泉」という名前で描いているんですよね・・・この頃すでにコアマガジン系でロリを描いていたので、区別するためだったのでしょうか。でもミニ四駆アニメのショタ同人はナヲコの名で出してるし、その後コアマガジンが出した『ショタキング』という雑誌の時はナヲコの名のままでショタ描いてますね。別段ロリとショタで使い分けているわけでもなし。「ささだ泉」の名は『ロミオ』という雑誌専用と解釈するのが妥当なようですが、なぜわざわざそうしたのか理由は定かではありません。ついでに『ロミオ』の7号の予告にはささだ泉の名があり、実際7号の表紙は描いていますが、本文中には掲載されていません。この時『ロミオ』の版元が光彩書房に変わっており、ことによると関係があるのかもしれませんが、推測の域を出ません。
 この辺の議論はもっと続けたいところですが、筆者の知る限りナヲコはメイドさんの絵を描いたことはないはずで、本題と関係ないのでここらでやめておきます。それにつけても、たんび氏のコレクションの奥深さには感嘆させられた一夜でした。
 そしてこの夜は編集長氏内定ゲトの電話連絡があり、我々は氏への祝杯とささだ泉研究の進展を言祝いで、岐阜の酒「女城主」なんぞ呑んでいたのでした。

5.えんか座の花道

 翌朝日曜日、筆者は早朝にたんび氏宅を出て西へ向かいます。地下鉄の接続が悪くひやりとしましたが、金山の駅員が山科までの切符を5秒で発券してくれたので、なんとか特別快速に間に合いました。特別快速で米原へ、そして新快速で山科へ。
 山科の駅でうどんを食し腹ごしらえ。関西のうどんはやはりおいしいものです。ここから京都の地下鉄東西線に乗って東山に。以前筆者が来た時は、地下鉄がなくてこのルートの上を京阪京津線が路面電車で走っていました。好きな路線だったのですが、やはり地下鉄になってしまいました。都営12号線みたいな電車に乗って東山へ。
 地上へ出てみると生憎の雨。これじゃあイベントの人出も望めないかなあ、と思いつつ川沿いにみやこめっせの方へ向かいます。余談ですが、開業時の京津線は貨物輸送を行っていて、この川との交差点に当時の船着場と貨物を積みかえる駅があったそうです。
 みやこめっせ到着は10時半頃だったでしょうか。広さ自体は普段の都産貿とそれほど変わらないのかもしれませんが、ずいぶん天井の高い会場でした。渡辺氏はすでに到着しており、せっせとブース設営に励むと見えて、なんぞ携帯ゲームに専心していました。関西まで来てすることもなかろうに、と思いつつも、筆者も製本を仕上げたり設営を手伝ったりして開場を待ちます。今回はカラフルなジャケット付きのCG集がありますが、もともと地味なサークルなもので出版物の表紙はみんなモノクロ、少しは彩りを付けようかと筆者は例の丸窓電車チョロQを引っ張り出し、ディスプレイしてみました。展示物とあんまり関連ないですが・・・(一応大正浪漫にはなるのかな?)

 いよいよ開場であります。開場して最初に流れたBGMが、渡辺氏がファンであるところの中川亜紀子さんが歌う『HAPPY☆LESSON』のエンディングだったので、何となく縁起のいい始まりであります。
 開場とともにどどどどどどど、とラッシュの駅さながらに人波が押し寄せてきました。どうも相当に大手のサークルがあるようで、それ目当ての人々のようです。津波のように通路を流れていくので、とても立ち止まって本を見てもらえそうになく、最初は様子見というところです。この人波は、コスプレ広場をあたかも遊水地であるかのように埋め尽くし、いっかな消える気配がありません。今回我々の配置された位置は、コスプレ広場至近のため、ブースにいながらコスプレが見られる好位置と喜んでいたのですが、すっかり当てが外れてしまった恰好です。雨だというのにこの人の入り、コスカの名は関西にも轟いていたということのようです。

 ようやっとコスプレ広場に空間が出来はじめ、渡辺さんも撮影に出撃します。何度も書いていることですが、メイドスキーにはミリオタ兼業者が多いのは世の習いで、今回も日本軍ドイツ軍など軍装さまざま。ですが、鉄道系制服の方も少数ながら見受けられ、筆者のような者にとってはますます嬉しい限りです。鉄道趣味兼業者も結構いるのか、例の丸窓電車チョロQに目を留めてくださる方も結構おられました。
「や、さっそくですか」
「はい、昨日ちょっと岐阜に寄り道して買ってきたんですよ〜」
「私も昨日買いまして、下芥見の駅で電車と並びの絵を撮ってたんですよね」

「へえ、そうですか・・・って、じゃ、あの時の?
 何たる偶然でしょう。筆者が車内から確かに目撃した、電車とチョロQの写真を撮っていた方と、ちょうど24時間後に京都のコスカ会場で再会してしまったわけです。やはり、類は友を呼ぶというか、なんというのか。


たびたび登場のレアグッズ(?) 名鉄モ510形電車のチョロQ

 即売会の楽しみというのは人との出会いでありまして、開場早々にMaIDERiAを訪れて下さったのは最近掲示板に書き込んで下さったTa283さん書評サイトを主宰されている方ですが、ハンドルネームから推測がつくように軍事関係にも造詣の深いで、大いに話が弾みました。やはりメイド趣味の世界には、そっち系の趣味を兼ねている人が少なくないようです(笑)
 多少人波が落ち着いてくると、MaIDERiAに来て下さるお客さんもぽつぽつと増えてきました。「新刊ないですか?」と聞いて下さるリピーターの方もいて、嬉しい限りです。新刊なくて済みません。現在作成中の『メイドさん不完全マニュアル(仮題)』は、最初5月にあるとばかり思っていた帝国メイド倶楽部合わせの積もりだったんですが、コスカ関西店があって帝メがないと分かったところで作成を延期してしまい(その時点では関西店参加は想定していませんでした)、目下は夏コミ合わせということになっています。もっとも百ページばかり翻訳して作成するはずが、まだ一ページしかやってないんだけど・・・

 結果的に今回のコスカでは、持ち込んだ本は一冊残らず完売という嬉しい結果になりました(CG集の方はそうも行かなかったのですが)。はるばる関西まで来た甲斐があったというものです。
 関西店ならではというのか、お客さんの『メイド記念日』への反応が今までの即売会と比べよりよかった印象を受けました。さすがお笑いの本場、だからでしょうか?
 『メイド記念日』を初めて販売したのは2001年の夏コミ三日目、とは8月12日のことでした。これを印刷したのがその前々日で、原稿が完成したのはそのさらに前夜、という強行日程でした。しかも原稿の完成した場所は、こともあろうに月天だったのです。つまり8月9日の夜、旅行中だった筆者は名古屋に寄り、そこでたんび氏と落ち合って月天で呑みながら打ち合わせをしたのでした。その時は完成を祝って白ワインなんぞ開けて祝杯としたため、二人で6970円と相当なお値段になってしまいました(値段を正確に覚えているのは、初版の裏表紙にこの時の月天の領収書を使ったからです。一発ネタなので次の版からやめましたが)。月天は味はよかったのですが(この日は穴子の天ぷらがおいしかった)、値段もそれ相応だったものでした。そして、そのまま夜行に乗って東京へ向かったのですが、ちょうどコミケ初日東京着の列車に当たりますから、車内はその手の乗客で満員、一種異様な雰囲気だったのを覚えています。まあ我々も原稿の最終チェックに余念がなかったのですが・・・
 筆者が月天に行ったのはこの二回きりです。日付を並べると、8月6日と8月9日。わざとしたわけでは全くないのに、何でよりにもよってこんな日になったのか。もう一度行くなら第五福竜丸被爆の日にでもしてやろうかと思いましたが、結局機会を逸しました。

 本もあらかた売れてしまった午後になっても、人出はあまり減ったようには見えず、相変わらず会場はごった返していました。と、その雑踏の中を歩むひとりのメイドさん何か見覚えがあるような。思案しているうちに姿を見失ってしまいましたが、一度お会いしたことのある森永舞さんではないかと筆者は思ったのです(見覚えがあったのはお顔の方だったのかコスの方だったのかは最高機密に属します)。そこで折よく撮影を終えて戻ってきた渡辺氏に店番を押し付けて、筆者は探しに出掛けました。
 やはりそのメイドさんは森永さんで、衣裳は「えんか座」というカラオケ店のものです(フォトコレクション参照)。ロングスカートの本格メイド服で迫力満点ですが、残念ながら現在では使われなくなってしまったそうです。森永さんはえんか座でバイトをされていて、制服廃止時にもらってきたのだそうです。いろいろ制服実用当時の裏話も伺えて面白いひとときでした。
 折角だから、ということで渡辺氏が撮影をします。この衣裳は、見れば分かりますが、裾の本来ペチコートの部分はスカートに縫い付けられています。キュアメイドのと同じですね。
 そんなことを観察しながら、Ta283さんと「国宝ですなあ」「世界遺産ですねえ」と鑑賞していたうちはよかったのですが、撮影していたのがコスプレ広場だったもので、渡辺さんのうしろにカメコが並びだし、森永さんも人が好くてそのまま撮影されていました。ところがその後ろに更に人が並ぶ。どんどん並ぶ。それはあれだけのメイド服ならば、しかもコスカ関西店でありながら関西独自の制服コスがあまりなかった点でも貴重な存在でしたから、当然といえば当然なわけですが、これはまずいんでないかい? こっちの頼みで撮影させてもらったのに。
 というわけで筆者は意を決してコスプレ広場に出向き、森永さん撮影の列の後ろに手ぶらで並びました。これ以上並ぼうとする者がいたら断固排除するつもりで。ところが筆者が列の最後尾に腕組みをして反対向きに陣取ると、あまりの怪しさにカメコすら寄ってこなくなり、たちまち列は消滅してしまいました。問題は無事解決したわけですが、カメコにも避けられるって一体? 変な格好だったかなあ、ネクタイしてたけど。

 その後森永さんは、本職の看護学生姿に衣更え。映画に出てきた昔の看護婦の姿を彷彿とさせるスタイルで、古典的というのか、これもとても魅力的でした。今度はさっきの轍を踏まぬよう、ブース内で撮影しました。あとで伺った話では、看護学校の式典用の服は戦前から変わっていないのだそうです。
 森永さんはいろいろ事情があって、その後怱々に会場を後にされました。その貴重なお時間を、当方の不手際でさらに減少させたことは、申し訳ない限りです。次回以降の反省材料です。旅の恥とばかりに掻き捨ててはいけません。

 こんな次第でコスカ関西店は終了。感想としては、はるばる京都まで来た甲斐は充分にあった、と総括できます。さまざまな手応えを得る事が出来ました。ミリオタや鉄道趣味者とメイドスキーの兼業ぶりについての実見、はともかくとして。
 閉会後我々は京都駅でたこ焼を食し、筆者は関西名物551の豚まんを買い込んで、意気揚々と凱旋の途につきました。何が意気揚々って、筆者は新幹線乗るの3年ぶりですから。今世紀最初か!
 というわけで筆者は、財布軽く、新幹線に乗り込んだのでありました。

(墨東公安委員会さんからの寄稿です)


テキストコレクションへ