読書妄想録
〜墨東公安委員会の電波ゆんゆんパラダイス〜


第1回
アニメ放映記念
『エマ』の車窓から〜『英国鉄道物語』他英国鉄道史関連書籍の巻

○キプリングの如く謳えよ〜太陽はエマの上に昇る

 いろいろ述べてきましたが、地図で世界の広がりと自分の位置を確認するのではなく、自分の中の世界を築くというのもまた作品構築の一つの方法なのであり、『エマ』で森薫氏はその手法を見事に活用しているのです。最後にそのことを、ヴィクトリア時代の文学者と比較検討してみましょう。

 後期ヴィクトリア朝以降の、帝国主義の時代を代表すると言われるイギリスの文学者として有名な人物が、ラドヤード・キプリング(1865-1936)です。その作品は植民地支配を正当化するものとされ、帝国主義者のレッテルが貼られてきましたが、彼が帝国主義者であっても(あるいはあるから、かもしれませんが)そのテキストには抗いがたい価値があり、最近は再評価の動きもあるようです(注10)。もっとも同時代の評価はまた別で、1907年にノーベル文学賞を受賞しています(当時としては最年少受賞)。彼の詩がどのようなものか、手元の本(ジョン・エリス『機関銃の社会史』平凡社)にこんな詩がありました。
白人に課せられた重荷をひきうけよ/最愛の子どもを手放し、/息子たちに国を出る運命を負わせよ/捕虜の要求に応えるために、/つらい仕事を待ち受けよ/震えおののく、野蛮な種族のために/新たな捕虜は、聞き分けがない/やつらは半分悪魔で、半分子供だ(同書PP.161-162)
これは米西戦争でフィリピンを獲得したアメリカに贈られたものだそうです。

 さて、彼の有名な詩に、これも植民地がらみですが、「マンダレイ」というのがあるそうです。その一節に、
そして夜明けが、雷光の駈ける如くに、湾の彼方、中国から立ち昇る
とあるそうです。でも、マンダレーは当時イギリス領のビルマ、今のミャンマーの都市です。ビルマの海は、西と南に広がるインド洋ですよね。湾の向こうはインドだし、大体日が沈んでも昇ることはないし、無茶苦茶です。それじゃヴェトナムだって。

 でも、東西逆転してても意に介さない作品の力強さに人々が魅了されてしまったのでしょうか。そして、森薫「英國」世界もまた、ヴィクトリア人キプリングのごとき読者を引っ張るパワーがあるのです。以上を踏まえて『エマ』2巻のクライマックス、190-191ページのキングズ・クロス駅の見開き絵(図5)を鑑賞しましょう。GNRの線路はロンドンから北を目指します。だからこの見開きページの右側、つまり列車の出発方向は北です。しかし、このページで、ガラス張りの屋根から差してくる光はページ右上から左下へ、北から南へと照らしているのです。東西反転のキプリングに対抗して、太陽を北の空に昇らせたのでしょうか。

図5

(森薫『エマ』2巻 エンターブレイン PP.190-191)

 いやいや、そうではないでしょう。北はエマの乗った列車が走り去った方向、だからウィリアムにとっては心の太陽が北へ去ってしまったのです。森薫「英國」世界の太陽は赤道や回帰線の上から地球を照らしているのではありません。エマの上に輝いているのです。

 帝国主義者キプリングを、森薫氏のメイド愛は超えたといえましょう。

(了)

今回登場・利用の本

エリス、J.(越智道雄訳)『機関銃の社会史』平凡社
小池滋『英国鉄道物語』晶文社
小松芳喬『鉄道時刻表事始め ――ブラドショオ創刊150周年――』早稲田大学出版部
コンラッド、P.(加藤光也訳)『ヴィクトリア朝の宝部屋 異貌の19世紀』国書刊行会
齋藤晃『蒸気機関車の興亡』NTT出版
シヴェルブシュ、W.(加藤二郎訳)『鉄道旅行の歴史 19世紀における空間と時間の工業化』法政大学出版局
菅建彦『英雄時代の鉄道技師たち 技術の源流をイギリスにたどる』山海堂
高畠潔『イギリスの鉄道のはなし ―美しき蒸気機関車の時代―』成山堂
高山宏『世紀末異貌』三省堂
ヘッドリク、D.R.(原田勝正・多田博一・老川慶喜訳)『帝国の手先 ヨーロッパ膨張と技術』日本経済評論社
松下了平『シャーロック・ホームズの鉄道学 鉄道とともにイギリスに誕生した名探偵』JTB(マイロネBOOKS)
水島とほる『蒸気機関車誕生物語』グランプリ出版
森薫『エマ』各巻 エンターブレイン(ビームコミックス)
森薫・村上リコ『エマ ヴィクトリアンガイド』エンターブレイン(ビームコミックス)
湯沢威『イギリス鉄道経営史 鉄道史叢書4』日本経済評論社
"Bradshaw's April 1910 railway guide : a new edition of the April 1910 issue of Bradshaw's general railway and steam navigation guide for Great Britain and Ireland" David and Charles(1968年の復刻版)
"British Railways Pre-grouping Atlas and Gazetteer" Ian Allan Ltd.
Simmons and Biddle "The Oxford companion to British railway history" Oxford University Press

ネタを借りたサイト
http://www.se-inst.com/tox/index.html内、http://www.se-inst.com/tox/sr41.htm

注10:ごく最近、橋本槙矩・桑野佳明編『キプリング 大英帝国の肖像』彩流社 という本が出ている。

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